旅立ちの花

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 昼休み後も粛々と仕事をつづけた。  夕方になって窓口業務終了の時間を気にしだしたころ。 「すみません! 学生課の窓口って今日空いてますか!?」  学生が一人、慌てて学生課の窓口にやってきた。春色のトレンチコートに薄く化粧をした女の子。いかにも「女子大生」という風情の。茶色い髪が少し乱れている。そんな彼女は、使い捨てのマスクをちゃんとつけていた。 「まだ空いてますよ」  今は4時半を回っている。窓口は5時まで。それ以後は何があっても窓口は受け付けない。時間を守り、守らせるのも仕事の一つだ。 「ごめんなさい! 落とし物していたんですが、引っ越しの準備とかに追われていてなかなかこれなかったんです。あの、まだ残っていますか?」 「落としたのはいつ頃ですか?」  3週間前です、といきなり来た彼女は言った。2月末ぐらいか。落とし物の保管期間は半年だから、まだあるはずだ。何を落としたのか聞くと、USBと彼女は答えた。3週間前というと、学生の入校の規制をかける前か。貴重品の落とし物が入った引き出しを開ける。鍵やらパスケースやらが顔をだしてきた。この辺りのものもそろそろ捨てなくてはならないと考えると、気が滅入る。後からありますかとか聞いてくる例はざらにあるから。  彼女のUSBは黒紐のシンプルなストラップがついていた。落とし物のUSBは2個あったのだが、そのうちの一つを確認して、これですと目を輝かせた。 「ありがとうございます。この中に一応、論文の下書きとか本書きとかも入っているの思い出して」  そんな大事なものを落とすなと、思わずこめかみを揉んだ。 「気を付けてね。論文は個人情報にもなっちゃうんだから。その中に本名とか所属の大学とか指導教官がだれだれとかも書いてあるでしょう?」 「はい。……気を付けます」  素直でよろしい。そして、受け取った証として、リストに必要事項を書いてもらう。氏名、所属学科と学年、取りに来たもの。正しい持ち方で書かれていく字を静かに追った。—―史学科4年、相沢里菜、USB。  ……論文の入ったUSB、という時点で気が付いてはいたが。 「卒業生よね?」 「はい」 「こんな時にわざわざ取りに来てくれてありがとうね。それから」  私は花瓶をから桜の枝を取り出して、USBを持つ彼女の手に押し付ける。 「卒業おめでとう」  今日、たくさんの人が言うはずで、目の前の彼女がたくさんの人から聞くはずだった言葉を私は初めて言った。  史学科の相沢さんは、呆然と手の中に咲いた桜の花を見つめている。いきなり渡されてびっくりしたのかもしれない。その中で、彼女からの若干の戸惑いも感じていた。 「受け取っていいんですか?」 「嫌じゃなければ。あなたが受け取らなかったら、仕事に追われる経理ガールのもとに行くだけよ。学生課の地味な事務員からの、ささやかな餞だと思ってくれれば」  卒業生を代表して、とかそんなことを言うつもりはない。卒業する誰かに渡せればなと、軽く思っていただけだ。そんな意図を含ませて彼女に伝えると、黒い瞳が少し光っていた。 「ありがとうございます」 「……そんな感動するものじゃないでしょ」  泣かなくてもいいでしょ、とは言わなかった。自分が泣いている、と意識すると、途端に恥ずかしくなってしまうものだ。相沢里菜はトレンチコートのポケットからハンカチを出して、目元を軽くたたいた。桃色のタオルハンカチに、アイラインの黒がうつってしまっていた。 「……だって」  そこから先は彼女の話だった。折角レンタルした袴が無駄になってしまった、とか。謝恩会もなくなってみんなと最後に話もできなくなってしまった、とか。学位記をもってみんなと写真撮りたかった、とか。何よりも、4年間頑張ってきたのに最後がこれなんて寂しすぎる、と。 「不安なんです。卒業式もなくなって、こんな不安定な状態で就職して、ちゃんとやっていけるのかなとか。これから入社までの間で内定取り消されたりされないかなとか。そのことを考えると眠れなくなって」  ぐるぐる考えているうちに、学校で落としたUSBのことを思い出したらしい。そうして最後に来て……私に花を渡された。多分今日、卒業するすべての学生が一番聞きたかった言葉とともに。  彼女の不安は彼女だけのものだ。この状況で、適当な言葉で下手に慰めたくはなかった。ここはもう、彼女の場所ではない。つらくなったら戻ってきなさいとは言えないのだ。  私から言えることなんて、本当に少ないのだ。 「つらいときは泣いていいんじゃないの?」  相沢さんは涙をぬぐう手を止めて、私を見つめ返した。 「それで泣いた分だけ、楽しい思いをしなさい。不安になったら、好きな漫画のことを考えると少しは気が紛れるわよ」 「……好きな漫画じゃないとダメなんですか?」 「じゃあ映画。『ロード・オブ・ザ・リング』の時のオーランド・ブルームとかは?」 「それ見てない。私は『キック・アス』の時の、クロエ・グレース・モレッツが好き。あんな感じになりたい。悪に立ち向かうの」 「……それをやると、ただのテロリストか人殺しになるよ。……少しは気が紛れた?」  ほんとだ、とつぶやきながら、相沢さんは少し笑った。  桜の花は花瓶に活けていた時よりも、一層きれいになっていた。しかるべき人間のもとにわたったからだろうか。相沢さんはもう一度私に感謝を述べてから、学生課の窓口に背を向けた。気が付けば5時になっていた。
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