ちゃんとしている人

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ちゃんとしている人

祥子からは珍しく、しばらくメールが返ってこなかった。 誠一は自分の愚行に苛まれていた。 変な人だと思われた。 もう連絡をくれないかもしれない。 おかしなことだった。 こんなに近くにいて、一緒に住んでいるのに、もう祥子には二度と会えないと思っている。 正確に言えば、誠一は会える。 ハジメが会えなくなるだけだ。 ハジメとして祥子に会えなくなることを誠一は憂いでいた。 数日後、やっと祥子から連絡が返ってきた。 「連絡が遅くなってしまってすいません。小説読んでみます。ベローチェ、『春にして君を離れ』いいですよね」 思い出の場所については、その質問の答えはなかった。 それが意図的なことか、忘れてしまったことなのか分からなかったが誠一は悲しかった。 必要以上には答えず、端的に返された返事から、誠一は祥子との気持ちの違いを知った。 どうしたんだろう。 最初から全部勘違いしていて、誠一だけが盛り上がっていたんじゃないか。 何回も祥子とのメールのやりとりを見返しながら、誠一は思った。 よかったじゃないか。 誠一は無理やりそう言い聞かせた。 祥子がハジメに恋することは浮気だ。 祥子は誠一を裏切らなかったのだ。 祥子は誠一を裏切っていない。 祥子は誠一を裏切らない。 そうなんだけれども。 誠一は二度祥子から振られた気がしてならなかった。 ハジメは誠一だった。 少なくとも誠一にとってはハジメは誠一だったのだ。 誠一は祥子への連絡を返せずにいた。 誠一が返したらハジメと祥子は完全に終わってしまうと思った。 もう二度とハジメが祥子に会えない。 それは今すぐには無理だった。 次の日、いつものように朝食を済ませるためにリビングに来た。 リビングに電気がついていた。 祥子だった。 いつもなら祥子は一緒に朝食を食べない。 誠一は元来、朝五時に起き、早く出社するため、朝ご飯は家族と食べないのが普通だった。 朝ご飯を食べながら、まだ浅暗い部屋の中で新聞を読むのが習慣だった。 しかし今日朝起きたら祥子がコーヒーを飲みながら、ダイニングテーブルで本を読んでいたのだ。 まさか徹夜で本を読んでいたんじゃないか。 「おはよう」 祥子は誠一に話しかけてきた。 いつもにない出来事で、誠一は朝から心拍数があがった。 大丈夫だろうか。 もしかして何か悪いことを告白されるんじゃないか。 まさか、離婚について、今話されるのだろうか。 誠一は悪い心当たりしかなかった。 「どうしたんだ?」 相変わらず、誠一はそんなことしか言えなかった。 不愛想だったと思う。 「何か隠しているでしょう?」 祥子は相変わらずちゃんとしていた。 祥子の聞きたいことはそれ以上でもそれ以下でもないんだろう。 肝心な時にはいつもはっきり聞いてくる。 それが祥子だった。 誠一はまるで心当たりがなかった。 誠一は逃げるように祥子から目を逸らし、祥子が読んでいる小説をみた。 それはアガサ・クリスティでも井上靖でもなかった。
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