心地がいい無言

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心地がいい無言

誠一は恥ずかしさを振り払うように時計を見た。 時計は17時をまわっていた。 「ケンタッキーにしない?」 そう祥子が誠一に話した。 それは誠一の好きな食べ物だった。 でもいつ食べたか覚えていないくらいそれは食べていなかった。 もしかしたら子どもが生まれて以来、一度も食べていないかもしれない。 子どもである幸恵の栄養を考え、いつの間にかケンタッキーと言う選択肢はなくなっていた。 最近も、幸恵は、太るからカロリーの高いものが食べたくなかったり、肌が荒れるとかで脂っこいものを食べたがらなかったため、全く食べる機会がなかった。 祥子も誠一と出会う前までは、ケンタッキーを食べたことがなかった。 でも誠一とケンタッキーを食べて以来、祥子は、事あるごとに、ケンタッキーを食べようと誠一に提案していた。 今思えば、それは祥子が食べたかったからではなくて、誠一が食べたいのに合わせてくれていたのかもしれない。 誠一が同意すると、祥子はデリバリーの電話を掛けた。 誠一は何を食べたいかは言わなかったが、きっと祥子はあれを注文するのだろうと思った。 当時二人がよく食べていたものがあったのだ。 なんとなく誠一は恋人だった時に戻った気分だった。 当時はケンタッキーを食べながら、よく映画を見ていたのだった。 でも変わってしまった二人の関係に、映画はなかった。 やはり全く同じというわけにはいかないんだろう。 代わりに二人の間には少しばかり無言があった。 でもそれは二人の間を気まずくさせるものではなく、お互いが他人とは違うということを意識できるものだった。 そこには心地いい、ただの時間があった。 一緒にいてもお互いがお互いの時間を過ごせる時間。 それは違和ではない。 だからお互い気を遣わせるものではない。 実を言うと誠一はケンタッキーを食べたい気分ではなかった。 たぶん祥子もそうだと思った。 そして祥子自身も誠一がケンタッキーを今はそこまで好きではないことに気づいているのかもしれない。 でも、祥子がケンタッキーを今食べたいと言ったこと自体に意味があった。 誠一が誠一らしくないことを言ったことに対して、祥子も祥子なりに答えてくれたのだ。 誠一はただその気持ちが嬉しかった。 なぜなら子どもが生まれて以来、初めて祥子が子どもではなく誠一のことを考えて発してくれた言葉だったからだった。
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