知りたくない

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知りたくない

「ごめんなさい」 それは唐突過ぎた。 なぜかその言葉で、誠一はさっきまで幸せだった自分にはもう二度と戻れないことを悟った。 何に対しての謝罪かは分からない。 でもただの謝罪ではないことは明らかだった。 それはその言葉を発した祥子自身が自分の発した言葉に驚いていたからだった。 その様子だと、祥子自身、なぜこの言葉を自分が発してしまったか、よくわかっていないのかもしれない。 でもそれは何でもないと誤魔化せるような簡単な感情ではないようだった。 誠一はうまく反応できなかった。 その言葉を問い詰めることも、何も聞かずただ受け入れることもできなかった。 その代わり、誠一の中の黒い感情が誠一の心を沈めていった。 きっとこの言葉は祥子の胸の奥の方にあった言葉なのだと思った。 何のこともない日常。 それがとてつもなく愛おしかった。 今日はそんな日だったのだ。 なぜ? 誠一はそのままでは終わってくれなかった今日を悔やんだ。 確かに今まで気になることはあった。 でもそれは全部誠一の考えすぎだといえばそうとも言えた。 しかし最後の祥子の謝罪だけは、もう誤魔化せないものとなってしまった。 誠一はついにこの問題を知らなければならないのだろう。 でもそれを他の人の言葉ではなく、祥子自身の言葉で聞くのが怖かった。 そして誠一は、誠一自身についても自信がなかった。 果たして、自分はそれを聞いても、自分が知っている自分のままでいられるのだろうか。 感情的になった自分は、自分も祥子も傷つけ、自分でも望んでいない方向へと行ってしまうのではないのだろうか。 誠一は祥子を見た。 祥子は何も見ていなかった。 誠一は目を逸らしてしまいそうな自分を必死に我慢した。 ずっと祥子と向き合うことから逃げてきた。 今更ながら、誠一は、そんなことに気づいていた。 それこそ、誠一が一番反省しなければいけないことだった。 誠一は祥子を見続けていた。 そこには小さい背中を丸めて、次に自分が発するであろう言葉に怯えている初老の女がいた。 それはかつて愛おしいと思った女で、誰よりも守りたいと思った女だった。 そして重要なのは、それが今も同じ気持ちでいるということだった。 正確に言えば、当時の気持ちとは全く同じと言うわけではないが、同じ勢いで想っていると言った方が正しいのかもしれない。 それにも関わらず、どうして自分が、その誰よりも愛おしい女に恐ろしい言葉を発せさせようとしているのか誠一は分からなかった。
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