沈黙を愛する男

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沈黙を愛する男

「今日、ベローチェに行きました。サンドイッチとカフェラテ、美味しかったです」 家に帰ると、祥子は小説を読んでいた。 すっかり暗くなっている部屋の中で、電気もつけず、小説に没頭している祥子を見て、前にもそんなことがあったことを思い出した。 部屋の電気をつけると部屋が一気に明るくなって、嫌な気分だった。 その不自然に明るすぎる光が身体悪いような気がしてならなかった。 祥子は誠一に気づくと「おかえり」といった。 誠一は「ああ」とまた答えた。 何の小説を読んでいたのだろうか。 誠一は気になったが、それについて質問をすることはしなかった。 誠一と祥子はお互い無視しているわけではなかった。 ただ本当に会話をすることをしないのである。 誠一からしてみたら、わざわざ話す気が起こらなかったと言えばそういうことになる。 誠一は元来一人でいることを好み、どちらかというと沈黙を愛していた。 だから誠一にとって、会話をしないことは、沈黙の時間を大事にすることと同じことだったのである。 誠一は、長い間、その沈黙とは無縁の生活を送っていた。 一日の間に沈黙になる時なんて、寝ている時ぐらいしかなかった。 子どもが巣立ち、夫婦になってからは、祥子と二人でいることが多くなった。 誠一は今までの時間を取り戻すかのように必要以上にしゃべるのをやめた。 そして祥子もいつからか誠一に合わせるようにしゃべらなくなっていった。 誠一はそれを大して気にしていなかった。 ただ祥子との会話がない関係に心地よさを感じていた。 誠一は、ただ同じ空間に祥子と一緒にいられることが好きだったのである。 でも祥子の場合は違った。 誠一との関係についに見切りをつけたのであった。 確かに一緒にいて会話がないのは異常だと思うこともあった。 でも誠一はただ祥子との関係では特別だと信じていたのである。 だから会話がないのが気になることはあっても、結局大して気にしていなかったと言えばそういうことになる。 「小説は何を読んでいるんですか?」 誠一は祥子にもう一つ質問を加えた。
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