ディスタンス

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ディスタンス

僕は昔からスパイ映画が好きだった。 単独で潜入し与えられた任務を最後には必ずやり遂げる。 時には敵に捕まり拘束されるも、隙を見て自力で窮地を脱する。 ヒーローになりたいとかではなかった。 彼らのように自信が欲しかった。 彼らには力があり、その力に自信があるから迷いなく任務に臨めるのだ。 だから敵の捕虜になったとしても怯えることなく脱出方法を探れる。 そんなスクリーンの向こう側にいる、 優秀なナルシストたちが僕の憧れだった。 公安省から帰ってきた僕は外出前となにひとつ変わっていなかった。 レイコ暗殺の本当の目的。 正世界線でも臓器不全の治療を受けているレイコに試験運用目的に投与された薬。 それは、この国も制作に携わっていた処方箋だった。 しかし、その試験運用中に欧米にてその薬がトリガーとなる医療事故が発生。 やがては「悪魔の右手」というレッテルを貼られる事態に。 政府は事故を受け、被験者のレイコが死亡した際の世論の責任追及を恐れて、 世界線物理学を以って「悪魔の右手」よりも先にレイコを暗殺する計画を立てた。 そしてその処刑者として選ばれたのが、この僕。 これが真相だった。 加えて僕の策略は全て局長に見透かされており、彼は僕に洗脳処置をしようと企てていた。 僕が洗脳されればレイコは政府の手に落ち、彼女は殺される。 局長は暗殺には反対のようだが、やがては政府の方針に屈してしまうだろう。 信用していないわけじゃないが、こればかりは仕方がない。 僕が彼女を救うためにできること。 それはひたすらに沈黙を守ることだと思う。 公安省は僕という障害がある限り次の計画には移れない。 あの組織にとって僕は天敵のはずだ。 なぜなら僕は局長たちの代替案を知らないことになっているからだ。 代替案を知らない僕はきっと、局長たちの送り出した代替保安官などに噛みつき、レイコを守ろうとするだろう。 実際、彼らの話を盗み聞くまでの僕ならそうしていたはずだ。 でも今は違う。 僕はこの状況を活かしてやる。 局長たちにとっては、 天敵たる僕が殻に篭り音信不通となってしまえば、僕を事前に排除すること叶わず強行手段に出るしかなくなる。 そして強行手段で背負ったリスクを、適切なタイミングで僕が突けば一気に計画は砂城と化すだろう。 最終的に暗殺しか残されていない代替案なんて認めるもんか。 ここで止めてやる。 これは我慢比べだ。 僕が切れるか、公安省が切れるか。 そして、 その間レイコの安全は確固たるものになる。 「悪魔の右手」による死の心配もない。 公安省が設定した二週間という期間。 これはつまり、その間はレイコが「悪魔の右手」では死なないことを意味する。 残り四日。 あと四日の間に公安省はアクションを起こさなければ暗殺計画は破綻し、幹部連中を道連れに地獄に落ちる。 四日で準備できる可能性は限られている。 どう駒を進めたところで公安省は既に詰んでいるのだ。 だが腑に落ちない点がひとつ。 本当にこの両世界は相対する関係なのか? 薄々感じていた。この二つの世界が相反する関係なら、 なぜどちらのレイコも臓器不全を患っているんだ。 相反するというのは症状の進行具合ではなくて、症状の有無になるんじゃないのか? 負世界線に公安省がないのは正世界線に公安省があるからであり、 そのおかげで我々は正世界線の安寧を負世界線を使って実現できるのだと教えられた。 つまり「公安省の有無」。 ならば「症状の有無」でなくては説明がつかない。 いやそれだけじゃない。 レイコ自身もそうだ。なぜ両世界にいる? さらに言えば、 僕のレイコに関する記憶を洗脳で隠滅したら負世界線ではどうなる? 誰がその記憶を継ぐのだ。正世界線で無となった僕の記憶は負世界線では有として現出しなければならないはずだ。 根拠は薄いが、確証はできる。 考えてみればおかしなことだらけだ。 まさか、これもまだ僕が知らない真実なのか? いや僕だけじゃない。保安官全員が知らない真実のはず…。 じゃあ、 僕らは、今まで本当はなんのために…。 突然、自分の手が怖くなる。 今までこの手でいろんな任務をこなしてきた。 もちろん、今回のように暗殺任務ではなくて、支援任務だったのだが。 それでも怖くなる。 間違った認識で任務を続けてきたかもしれない僕は、 もしかして知らず知らずのうちに負世界線の住人の未来を…。 春明けだというのに寒く感じる。 夏の準備を進める窓の外に対して、 この部屋だけまだ冬に取り残されているようだった。 寒い。 自分を両手で強く抱きしめるが、ちっとも暖まらない。 布団を羽織るも、かえって体温を吸われ逆効果だった。 寒い…。 誰か、 僕の名前を呼んでくれ。 この冷たい手を握ってくれ。 ただそれだけで救われる気がした。
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