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バンピング
「れ、レイコ…さん…」
割れたガラスに触れるように呼びかける。
ぴくんっと身体を揺らし、
もぞもぞと垂れる黒髪の間からこちらを覗いてくる。
『…タシロ…さん…?』
掠れた声だ。
相当の疲れがうかがえる。
「はいタシロです。…、言葉もありません...」
何も言えなかった。
『大丈夫でしたか…?』
レイコには怒られると思っていた。
怒られて当然の仕打ちである。
むしろ、怒られなきゃおかしい。
だがレイコの反応は違った。
その口調は怒りとは違う。
いや、正反対だ。
「…えっ?」
『どこか怪我したりしてませんか?』
心配してくれているようだった。
「いえ、大丈夫です…」
そう答えると、
彼女の表情は張り詰めた緊張から一気に解き放たれたようだった。
白い小さな手を自分の胸元にあてて、
椅子に崩れるようにもたれた。
『そう、よかった….本当に良かった』
「お、怒らないんですか?」
『えっ?』
あまりにも予想外の反応で、
思わず聞いてしまった。
「だって、こんなにも待たせたのに」
『そりゃ怒ってますよ』
緩んだ表情は血色を取り戻し、
頬を膨らませて一気に不機嫌のそれになった。
「じゃあ…」
『でもいいんです。こうして来てくれたんですから』
「そんな…」
『いいんです。怒ってはいるけど謝っては欲しくありません』
「えっ?」
レイコが何を言っているのかわからなかった。
『褒めてください』
頭を胸元にもたれてきて彼女は言った。
「ほ、褒める?」
『そうです褒めてください。
よくぞここで俺を待っててくれたな偉いぞ!、と』
「ええっ?」
彼女が何を考えているのかわからなかった。
『さぁ早く、でないともう帰ります』
声色が険しくなった。
彼女が正気なのが伝わる。
『さぁ!』
言われた通りにするしかなかった。
「え、偉いぞぉれ、レイコさん…」
恥ずかしさのあまり目線を逸らしたまま、棒読みで答えてしまった。
『違います!頭を撫でながら言うんです!
あと敬称は要りません!』
迫力に圧倒され、今度はちゃんと答えた。
「え、偉いぞレイコッ!よく待っててくれたっ!よくやった!偉い偉いぞ!」
4時間遅刻しておいてこの態度。
もうどうにでもなれ、だった。
沈黙になる。
さすがに怒ったのだろう。
そう思って胸元のレイコに向く。
...笑っている。
なんでだ…?
『何それ!大根じゃないですかぁ!』
大根演技、ということか?
えっ...、それだけ?
「えっ...、それだけ?」
心の声が出てしまう。
レイコは笑いながら答えた。
『何度も謝られるより、
こういう風にタシロさんの精一杯の感謝を言ってもらった方が嬉しいです』
達観的な答えだった。
説明されると納得できる。
数多の謝罪文句より、
一度の誠心誠意の感謝の方が許す気になれる。
そういう時は、確かにある。
思わず「なるほど」と呟いた。
『これからは謝るよりも先に「ありがとう」と言ってください!でなきゃ許しません』
「わかりました。心がけます」
新しい約束ができた。
素直に、美しい約束だと思った。
それから彼女に誘われ、
濡れた服を乾かし雨上がりを待つため、彼女の家に向かった。
内心、
絶望視していた彼女との関係は、
その彼女のおかげで距離を縮めることができた。
だがその関係、
長くは続かなかった。
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