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アストニッシュ
彼女の部屋は大学側から寮として用意されているアパートだった。
良いとも悪いとも言えない住まいだと、レイコは言う。
『服、脱いじゃってください』
いきなりの全裸要請。
さすがに抵抗した。
「いえ、それは…」
『でも濡れてますし、そのまま着てたら身体に悪いですよ』
確かに少し肌寒い。
もし、このまま着てて翌日風邪でも引いたら彼女はどう思う?
「わかりました。でも流石に恥ずかしいので、コンビニで着替えを買ってきます。待っててください」
『えっ、あっ、そうか!ご、ごめんなさい、そうですよね恥ずかしいですよね。ボーっとしてました』
服を脱いだら人間どうなるのかを考慮していなかったらしい。
『すいませんでした、服は私が買ってきます。先にお風呂で温まっていてください』
「いえ、そんな」
『構いませんよ、そんなに遠くないですし』
「でも…」
パシリにしてしまうようで後ろめたい気がした。
ただでさえ、今日は迷惑をかけたばかりなのに。
『大丈夫です。それより風邪を引かれたら困ります』
「た、確かに…。ではすみませんお願いします」
『謝らないでくださいよタシロさん!約束したでしょう』
さっそく約束を忘れた。
本日二度目の約束破りだ。
なんて情けない...。
「はい、ありがとうございます。お願いしますね」
『そうです!そっちの方が嬉しいです!じゃあ行ってきますね』
レイコはニコッと微笑み、
財布と傘を手に、部屋を後にした。
そう言えば、
さっきの服を脱ぐ脱がないの時にレイコ謝っていなかったか?
俺だけ注意されたけど、
レイコもレイコじゃないか...?
いやでも、
あの状況で感謝されたら、それはカオスだな。
そんな独り問答をしながら風呂場に向かう。
すると、
台所の奥に積み上げられた処方箋の山が目に留まった。
勝手に見るのは悪いとも思ったが、
その山の体積の不自然さが背徳感をもみ消した。
一つを手に取り中の薬の銘柄を見る。
別に医療関係に明るいわけでもないが、
その処方箋の概要はすぐにわかった。
臓器不全に対応する薬だった。
だがそれだけじゃない。
その薬はつい最近に、
正世界線の欧米にて今世紀最悪とも騒がれた医療事故の渦中にあった薬だった。
確か死者80名も出した問題薬。
報道では通称として「悪魔の右手」なんて呼び方をしていた。
なぜ、
レイコの家にそんな薬が…。
いや違う、
今ここは負世界線だ。
正世界線で「悪魔の右手」とも非難されたこの薬は、
負世界線では、言うなれば「天使の右手」のはず。
なるほどだからこれだけの量が置いてあるのか。
いや待て、
こんなに強力な処方が必要なら、
レイコの病気って…。
思考回路をせき止め、風呂へ向かった。
何も考えず、ただ風呂を目指し、
脱衣を済ませ、
エチケットかけ湯をし、
湯船に浸かる。
身体の節々の冷えが外に逃げていくの感じる。
やがて身体の中枢温度と湯の温度が等しくなり、
身体の境目がわからなくなる。
一気に疲れが染み出していき、
代わりに活力が蓄えられていく。
命の洗濯とはこのことだろうか?
ふやけていく自分の体を見つめながら考える。
整理しよう。
今回の任務は正レイコに安楽死を、という内容だ。
そして負世界線のレイコは臓器不全患者の薬を持っている。
それも正世界線では最大の医療事故を起こした劇薬。
つまりこの世界線では臓器不全に対する最大の戦力。
そしてそれはそれ程にレイコの病状が深刻なことを表している。
そして、
正世界線の安楽な死を成すためには、
この世界線のレイコは…
そんな!馬鹿げてる!できるもんか!
レイコの安らかな死が正世界線にどんな効果をもたらすのかはまだわからない。
だがそれ以前に、
こんな任務があっていいのか!
あまりにも非人道的だ、許せない。
相手はまだ二十歳の大学生だぞ!
それに大病を抱えた女の子だ!
そんな子を…。
風呂に浸かっているせいか沸点がいつもより高くなっていた。
取り乱し、
怒りに駆られたまま風呂を飛び出した。
そのまま身体から乱暴に水滴を拭きあげ部屋に戻る。
「僕は、どうすればいい…」
今日はよく心の声が漏れる。
濡れた服から公安省の職員証を取り出し、
しばらく見つめ、
それから、
思いっきり床に叩きつけた。
保護ゴムカバーに覆われた職員証は、何度か床で跳ね、
そのままゴミ箱に入っていった。
その様子を見て、ようやく落ち付きかけた、
そんな時に、
『ふぅ〜ただいまですぅ』
レイコが帰ってきた。
「レイコさん…」
落ち着きかけた思考は、
再び混乱をおこす。
こんな状況で、
どんな顔して彼女に会えばいい。
たった今彼女が買ってきた服は、
彼女を惨殺するためにやって来た公安省のイヌの服だ。
そんな奴がどの面下げて「ありがとう」なんて言うんだ!
気づけば、
彼女に腕を掴まれていた。
『えっ、どこいくんですかタシロさん?』
無意識に彼女の前から去ろうとしていた。
「いや、ち、ちょっと買い物を…」
『服なら買って来ましたよ、ほらっ』
「いや、えっと、その…」
頭が真っ白になる。
何も考えられない。
そんな頭で、必死に言い訳を探す。
『あっ、この柄いやでしたか?』
「そんな、いや、えっと…」
ぼやけた返事しかできない。
思考がいつまでたっても復旧しない。
『じゃあ買い直して来ますね、すみませんもう少し待っていてください』
「いやっ、えっと違くてね、その...」
彼女の腕を掴んだ。
「...いいんだ服は。ありがとう、助かったよ...」
『タシロさん、えっ、だ、大丈夫ですか?』
流石に不安になるだろう。
普通の反応だ。
「ち、ちょっと気分が良くなくてね、外の風に当たってくるよ、ははは…」
必死に笑顔を作る。
『いやそうじゃなくて、涙が…』
「えっ...?」
目に手を添えてみると、
手の甲には大粒の雫が乗っていた。
いつの間にか泣いていたようだ。
『タシロさん…?...何か、あったんですか...?』
彼女の手が腕から手元に降りていき、
片手が両手で強く包み込まれた。
その両手の向こうには彼女の憂えた表情があった。
そんな目で僕を見ないでくれ...。
僕は、君を...。
『タシロさん…』
何も言わないタシロを、
レイコは呼び続けた。
『タシロさん!』
「すみません…ほんと、すみません…」
『えっ?』
自分はもう、今日は謝るしかないようだ。
「本当にすみません、すみません…」
『タシロさん!』
「ほんと…すみませんでした...」
そんな不甲斐ないタシロを前にして、
それでも彼女は、
彼女でいてくれた。
『謝らないでくださいって言ったじゃないですかぁ…』
優しく接してくれる彼女にもう返す言葉も顔もなかった。
やがて彼女の目からも雫が滲み出した。
彼女の手をそっと外す。
その様子を不安げにレイコは見ていた。
そして、
「すいませんでした…」
結局最後まで約束を守ることなく、
タシロはその場を後にしてしまった。
後ろから聞こえてくるレイコの嗚咽から逃げるように。
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