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ディタミネイション
あれから何日経ったのだろう。
もう曜日の感覚も薄れ、認識しているのは昨日、今日、
そして呼んでもないのにやって来る明日だけだ。
数えてみる。
任務開始から一週間と二日
そのうちレイコと過ごせたのは任務初日とその明後日の水族館だけ。厳密には水族館ではなく彼女の家だが。
せっかく歩み寄ってくれた彼女を、僕は…。
せっかく心配して湯も貸してくれた彼女を、僕は…。
せっかく手をとって約束を思い出させてくれようとした彼女を、僕は…。
もう遅い。
彼女は失望しただろう。
いやそうであるべきだ。
これからの彼女のためにもこれ以上こんな男に関わるのは賢明ではない。
僕は僕で陰ながら彼女を守り、任務を果たす。
彼女は元通りの大学生活を送ればいい。
もともとそれが一番だったのだ。下手に接近して関係を築こうなんて考えるからこうなる。
これでいい、そう、これでいいのだ。
そう言い聞かせてこの一週間は過ごしていた。
でも潮時だ。もう動きださなきゃいけない頃合いだろう。
まず、
僕は任務について情報を集めなさすぎた。だから予想外のアクシデントで思考が乱れ今に至っている。
物事には全て理由があり、僕が情報の乏しいまま彼女に出会ったのも何か本当は意味があったのかもしれない。
だが今、この事態に考える限り意味はない。
今の状況が利に働くことはまずないだろう。
なら取るべき行動は一つ。
一週間ぶりの外出で公安省に向かった。
デスクで例の処方箋について調べていた時、
同期の保安官に尋ねられた。
『あっ、タシロじゃん。任務終わり?』
保安官同士の情報のやり取りは禁止されているため、任務の性格に関わらずこうして遠慮のない会話になることがある。
「いや、まだだよ。これからまた向こうに戻るんだけどその前に調べることがあってさ」
『なるほど、大変そうだな。あっ、そういえば局長がお前のこと探してたよ?』
局長というのはこのオフィスの総責任者である。レイコのファイルを渡してきたのも局長だ。
「局長が?」
『うん、見かけたら連絡するように伝えてくれって言われた』
「えぇ、何だろ…」
『お前なにやらかしたんだよ?』
「何もしてねーよ」
『じゃなきゃ任務中の保安官を呼びつけるような真似しないだろ。遂行期間だってあるんだから』
彼のいう通りそれぞれの任務には期日があり、最優先事項として担当保安官に課せられている。
だから期日に追われている任務中の保安官を呼び出すということは、
それほど緊急で重大な要件であると言えるのだ。
だから彼も失態関係だと予想したのだろう。そんなに僕の信用はないのか。
「じゃあ行ってくるよ」
お気楽な同期と別れ、局長執務室に向かう。
局長は、簡単にいうと感情の薄い人である。
本当はそんなことはないのかもしれないが、少なくとも公安省での彼は感情の振れ幅が小さい。
だが局長としての手腕は見事である。
たった一人で何人もの保安官を管制している。
頼れるけど取っ付きにくい上司。それが僕にとっての局長のイメージだ。
執務室に着くと局長の秘書官がちょうど部屋から出て来たところだった。
『局長に御用でしょうか?』
セミロングの髪を耳に掛けながら尋ねられる。
「ええ、局長いまよろしいでしょうか?」
『今は長官執務室にいらっしゃいます。よろしければ要件を代わりに申し伝えますが』
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
『ではこれで。失礼いたします』
軽く会釈をして秘書官と別れた。
せっかく5階も上がってきたのでこのままオフィスに戻るのはもったいない。
長官室の前で待たせてもらうことにしよう。
この時が決定的に僕の人生の分かれ道だったと思う。
ここでオフィスに戻っていたらきっと僕の未来は変わっていたし、レイコの未来だって。
長官執務室の前まで来ると扉の締まりが不十分なようで、室内の声が聞こえだした。
声の主は局長と長官だった。局長の方は少し興奮気味らしく、壁越しでもしっかり聞き取れてしまう程だった。
「どうかタシロに洗脳処置の許可をお願いします!」
全身の感覚が一瞬なくなった。
えっ、
せんのう…?俺が?
自分の聞き間違いかもしれないと再び壁に耳を当てる。
『ダメだ、あれはまだ試験段階だろう。危険すぎる』
「でも!」
『保安官は貴重な存在だ。臨床試験の検体にできるような人間じゃない』
もうそこまで技術が発達していたんだな、なんて感心していた。
本能的に現実を受け入れないようにしてるのかもしれない。人間の防御機能の一つである。
なぜ僕に洗脳の必要があるのだろう。
まだ勤続2年のルーキーの僕がなぜ。
いや勤務年数は関係ないか。
そうやって本質から目を背け続ける僕に、
ついに裁きとも言える真実が訪れる。
「月下レイコの処方薬だってそうだったじゃないですか…」
『い、いきなりなにを言うんだ…、誰だ、月下レイコって…』
突然、レイコの名前が出てくる。
なにか嫌な予感がする…。
長官がさっきまでの勢いを失い、辿々しい口調になったのも不自然だ。
「知ってるんですよ、欧米での医療事故の薬。あの薬に我々の国の政府が実は多額の支援金をつぎ込んでいたってことを!」
欧米での医療事故とは、
僕がレイコの家で処方箋を見つけて思い出した、正世界線での事故のことだろう。
局長はさらに長官に迫る。
「さらに言えばこの国内でも試験運用されていて、その被験者がタシロの任務対象、月下レイコだってことも!」
『なっ…』
「上の連中はそんな事実がマスコミに漏れれば大問題だ。これで月下レイコに万一のことが起こりでもしたらもうこの国の幹部連中は全員おしまいじゃないですか!」
『ば、バカな...そんな話、どこで…』
長官もついに感情的になり始めた。
明らかに取り乱している。
僕の中で得体の知れない不安が、
どんどん大きくなっているのが意識せずとも分かる。
『お、脅しているつもりか!デタラメもいいところだ!』
「だからウチに負世界線の月下レイコの暗殺を命じたんだ。悪徳試験薬よりも先に公安省を使って暗殺してしまえば正世界線の彼女が司法解剖に回されても自然死という結末にできますもんね!」
まさか、
つまりそれは…、
多額の支援金を注ぎ込んでまで援助した処方箋に大きな欠陥が後から見つかってしまった。
そんな政府の失政を隠滅するために描かれたシナリオで、
僕が負レイコを残虐に殺めることで、
均衡を保とうとする世界線物理学により、
正レイコは残虐死の対称である、自然死で死ぬ事になる。
さすれば例え、正レイコの死が世論の中で怪しまれ司法解剖に回されたとしても不審は見つからず、
「悪魔の右手」の試験運用も被験者の突然死にて中止となり、闇に葬られる。
少し深読みな気もする。
まさかな…。
『いい加減にしないか!』
「私も迂闊でした。もっと早くこのことを知っていればタシロをこんな事実に触れさせずに済んだのに…」
『なにが言いたいんだね君は!』
「まずはタシロに即時帰還するように連絡してください。タシロもまだ任務中のはずです。おそらく彼のことだから暗殺せよという指示を受け取ってすぐに指示通り負世界線の彼女の元へ向かったでしょう。もし私に異議申し立てでもしたら更迭され他の保安官が任務に就く。その保安官が拒否すれば別の保安官に。そのうち彼女を殺せる保安官が現れ彼女は死ぬ。そこまで読んだ上でね」
しばらく無声になるも、沈黙は長官の反論で断ち切られた。
『な、なぜ言い切れる!もう殺してるかもしれないだろう!』
「あいつは人一倍正義感が強い人間です。正義バカと言ってもいい。そして彼女の在世と、私に直談判して来なかったのが何よりの証拠です。きっとあいつは一人で彼女を助ける気です」
『バカな…』
「でもどうあがいてもタシロ一人では無理です!彼を洗脳し任務に関する一切の情報を隠滅してから態勢を立て直しましょう。
今、彼に援軍を送ったところで彼に怪しまれ援軍は返り討ちにされてしまうでしょう。彼を呼び戻してこの状況を説明する時間ももう無い。
こうなったら彼を洗脳して記憶を消去し、新たな保安官を向かわせて彼女をどうにかするしかないのです!」
一気に長官を土俵際まで詰める局長。
長官はもう勝負俵の外に足を着きかけていた。
『なんとかならなかったら、どうする気だ』
長官が局長に最後の抵抗を見せる。
「その時は私は責任を取って私は辞職し、負世界線のレイコは、
部下に暗殺させます…」
そこまで聞いたところで僕はオフィスに戻った。
でもデスクには戻らず、同期の「どうだったよ?」という問いけも振り切り、
僕は逃げた。
その時はもうそれしか出来なかった。
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