晴れの日は僕の世界にさようなら

　ざりざりと、薄く黄ばんだ色の木炭紙に木炭の色を乗せていくと紙の上に薄ぼんやりと形が浮かび上がる。

　薄暗く狭いデッサン室は僕の小さな世界だ。
　外からは、さらさらと雨の降る音が聞こえる。

　天窓から太陽光が入り込む、そんな晴れの日のデッサン室は嫌いだ。
　これは僕の世界ではないからだ。
　美術教師は光の陰影がつけやすいから晴れの日がいいと言っていたが、僕は嫌いだ。

　ごうごうとデッサン室に付いている古い換気扇が回る。
　僕の通う高校は、昔は美術科があったらしいが今は無い。
　美術部はあるけれど、ほとんど幽霊部員だらけ。美術室は授業でも使われるけれど、このデッサン室はもちろん普段は使われていない。
　開かずの間と化したデッサン室を唯一の美術部員として先生に借りている。

　ここは僕だけの世界だ。

　マヤの予言も大嘘だった。僕はこんなに生き辛い世界にさよならしたいのに。隕石でも落ちて一瞬で消えて無くなってしまいたい。
　外はさらさらと雨が降り続いてる。食パンの耳を食べながら目の前のマルスを描き続けた。

　20分くらいそうしていると、ギィ、とさび付いたベランダへ出られる扉が開いた。

　驚いてそちらを見ていると、同じクラスの田崎が少しも汚れていない野球部のユニフォーム姿でベランダから出てきた。

「あれ、加瀬じゃん。ここで何してんの？」
「美術部だから、絵描いてる……田崎こそ、何してんだよ」
「んー、雨でグラウンド使えないから、サボってる」
「あっそ……」
「これ、加瀬が描いたん？」

　僕の描いたマルスをしげしげと眺めながら田崎が聞いてくる。

「まあ、うん」
「へえー、すげぇね。俺、絵とか描けんからソンケー」
「田崎は、運動できんじゃん」
「んー、まあね。なあ、これ乳首は描かんと？」

　マルスの胸像の胸を指しながら田崎はニヤニヤしながら言った。

「描いてんじゃん」
「えー、もっとちゃんと描けって」

　最悪だ。ぶち壊された世界とはまさにこのことだ。

「じゃあ田崎、お前脱げよ。乳首描いてやるから」
「マジ？」
「ああ」

　さっさと出ていってほしい。ただそれだけだったのに田崎は頭がイカレているのか、大人しくユニフォームを脱ぎ始めた。

「ほい」

　美しい体だった。きれいに割れた腹筋に、ハリのある胸筋。首筋から鎖骨、三角筋から上腕、前腕へ流れる造形の美しさに呆然としていると「おーい」と田崎が声をかけてきた。
　とりあえず今までマルスを置いていた場所に腰かけてもらい、僕は新しい木炭紙に田崎を描き始めた。

　田崎はじっとしていることが苦手なのか、数秒後にはすぐにポーズを変える。

「じっとしろよ」
「けっこう退屈なんけど」
「サボりだろ？　あと5分耐えろよ。そしたら休憩入れるから」
「……加瀬ってさ、美大かなんか目指してんの？」
「別に……」
「じゃあなんで描いてんの？」

　描くことが、僕の世界を作る行為だから。そう言って田崎は納得するだろうか。それとも僕の親みたいに変だというのだろうか。

「ま、俺も別に野球選手になりたいわけじゃねえしな」

　そうなんだ。と相づちを打ちたかったが、田崎を描くことに集中したかった。
　田崎の体はデッサン室にあるどの石膏像よりも美しい体をしているのだ。
　設定していたアラームが鳴る。

「あー疲れた。な、見して！　んだよ、まだ乳首描いてねえじゃん」
「まだ描きはじめたばかりだろ？」
「つか腹減った。そのパン食っていい？」
「白いとこは使うからダメ。耳の部分なら……」
「ケチ」

　そう言いながら田崎は食パンの耳を食べる。田崎は鬱陶しいが、田崎の体は好きだ。
　またアラームが鳴り、田崎に元の場所に戻ってもらう。

　描き終わるころにはもう18時になっていた。

「あ～疲れた。うわ、すげえ～リアル乳首じゃん！」

　描いた絵にフィキサチーフをかけていると、ゲラゲラと笑いながら田崎が僕の描いた田崎を見ている。
　カルトンに描いた田崎をはさみ、所定の位置に戻す。

「また、雨の日はサボりに来る？」
「また食パンの耳くれんならいーよ」

　そんな約束を取り付けて、ふたりでデッサン室を出た。

　その日から、僕は田崎ばかりを描くようになった。

　雨の日は目の前に田崎がいる。僕の世界に田崎がいる。
　晴れの日は外のグラウンドで白球を追うのでいない。晴れの日、僕の世界は崩壊するのだ。

　授業中も後ろの席から田崎を眺めては、鉛筆でクロッキー帳に田崎を描く。

　野球部の遠征で田崎がいなくても、田崎を思い浮かべながら描き続ける。もう目の前に田崎がいなくても寸分の狂いもなく田崎を描けるようになった。笑ったときのえくぼの位置も、ほくろの位置も、怪我の痕も全部覚えてしまった。

　さて、今年の夏は水不足が懸念されるくらいに雨が降らない。
　田崎。田崎。田崎。田崎がいたら、僕の世界はより美しいものになるのに。雨が降らないのだ。

　デッサン室からベランダに出てグラウンドの田崎を眺める。
　僕の世界の外、眩しい世界にいる田崎を眺めていると、どうにもやるせなさが襲ってくる。

　世界の崩壊。僕はベランダから身を乗り出す。You can fly！　でも妖精の粉がない僕は、真っ逆さまだ。

　目が覚めると、昔インフルエンザになったときにしたような点滴の袋が目に入った。そこからのびている管は僕の右腕に繋がっていた。

「よお」

　耳に入ってきた田崎の声にびっくりして反対側を向くと、そこには田崎がいた。
　窓の外は晴れている。

「田崎、今日晴れてるよ」

　田崎は訳が分からないって顔で僕を見ていた。だから僕は丁寧に分かりやすく僕の世界と外の世界について話をした。

「だから、このまま雨が降らなかったらもう田崎は僕の世界に来ないんじゃないかって。そう思ったら飛びたくなったんだ」
「加瀬ってさあ、バカなん？」

　田崎は本当に失礼な奴だ。

「じゃあさ、加瀬がこっちに来りゃいいやん？」
「……なにそれ」
「つーか加瀬ってさ、どんだけ俺のこと好きなん」
「なんで」
「めっちゃ俺の絵描いとったやん。あの教室、マジ俺の絵だらけでウケたわ～。ま、俺も加瀬のこと好きやけんいいけど」

　そう言って田崎が笑う。

「だからさ、世界とかそんなの置いといて、加瀬がこっち来いよ」

　消毒液の臭いに混じって、田崎のお日様のような匂いが近くでした。そして妙に柔らかいものがほっぺたに当たる。まるで隕石が落ちてきたような感覚だった。

了