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袋の重さに何かが加わりさっきよりも体は傾いて、普段よりずっとゆっくり歩いていると、どこからか声が聞こえてきた。
「あの、すいません」
夏真っ只中のこの時期に、春のような花の香りをたくさん含んだ風が吹きぬけていった。
急に視界が一変して、なんだかキラキラして見える。
(あれ?ついに耳までおかしくなった?)
最初は暑さでやられてしまったんだと思った。
絵理の耳に届いたその声は、今は聞こえるはずのない声だったから。
「あのぉ、ちょっといいですか」
二度目の声はさっきよりもずっと現実味を帯びていて、そんなわけはないと思っても、心臓は大きく跳ね続ける。
(聞き間違えるはずがない。でも、だって、こんなところにいるわけないじゃん)
声のする方を振り返ると、絵理よりも頭一つ半は大きい男性が、キャップの下から覗く瞳でこちらを見ていた。
「怪しい者ではありません。ちょっと道に迷ってしまって」
(えぇ!?うそ、神田さんだ!なんで?どうなってんの?)
今、絵理の目の前にいる人は、絵理の推しキャラの声を担当している人だった。
「駅までの道を教えていただきたいんですけど」
「え…駅!?ここからですか?」
聞きたいことが山ほど飛び交う頭の中で、ここから駅までの距離を考えた。
絵理の通勤手段は徒歩で、お店から約三十分の道のりを、雨が降ろうが雪が降ろうが歩いて通っていた。
それも、交通費としてお金を使わないため。
お店から駅まではそう離れていないから、絵理の住んでいるアパートのすぐ近くまで来ているこの場所からだと、同じくらいの距離を歩くことになる。
絵理にはもうなんてことはない距離だけれど、神田に三十分も歩かせるのは気が引けた。
ふと、絵理は利用したことはないけれど、駅が終着点の路線バスがあることを思い出した。
「近くにバス停があるんで、そのバスで駅まで行けますよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
思わず顔をマジマジと見つめて、やっぱり神田さんだ、と再認識した。
こんなところで神田に最寄りのバス停を案内している今の状況がなんなのか、絵理には不思議でならない。
自分の後ろを神田が歩いていると思うと、緊張は増すばかりだった。
少し歩いて見えてきた反対車線側にあるバス停には、すでに一台のバスが停まっていて、ドアの閉まる音が聞こえてきた。
「待って!」
絵理が声を上げるも、バスは気づくことなく次の目的地へと動き出してしまった。
遅れてやってきた神田が次の時間を確認すると、困ったように笑って言った。
「次、一時間後ですね」
普段から乗ることがないからすっかり失念していた。
そしてここが、山と田んぼと畑しかない田舎だということも。
「すみません、時間無駄にしちゃって」
「いいんですよ、謝らないでください」
でも…と絵理は言葉に詰まった。
神田が超多忙な身であることは知っていたから、そんな人の大事な時間を奪ってしまった罪悪感が押し寄せてくる。
「本当に大丈夫なんです。時間はいくらでもあるんで」
メディアでよく見る顔が、一瞬苦しそうに見えた気がした。
「とりあえず、座りませんか」
取り繕うように笑って、神田がバス停の後方に設置されているプラスチックのベンチに腰掛けた。
幸いにもそこには屋根がついていて、まだ高いところにある日差しを遮る役目を果たしてくれていた。
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