プロローグ

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プロローグ

 コンビニの前を通る時、灰皿の隣に座り込んで、なにもない表情で煙草の煙を眺めている男性を見て、 「少しだけお時間よろしいですか?」  と、いつもはにこやかに、駅前で道行く人々に声を掛けている宗教家の青年だ、と思った。  横顔の綺麗な人だった。今日はいつものパンフレットを持っていない。でもいつもの、喪服みたいな黒いスーツだ。ネクタイの先が地面につかないように、濃灰のシャツのポケットに押し込んでいる。  立ち止まって掛けるための言葉は持っていなかった。オレはそのまま彼の前を通り過ぎる。その途中でズボンのポケットの携帯電話が震えた。はい、と名乗ってから耳に当てる。 『俺だ。今どこだ』 「近くのコンビニの前です。もうすぐ着きますよ」 『悪いが、俺が今出掛けてるんだ。すぐ戻るが、どこかで時間潰しててくれるか』 「分かりました。え、ちなみに(しん)さん、何を?」  目の前の信号が点滅する。向こう側から急いで渡ってくるサラリーマンにつられて走りそうになる。でも、どちらにしても時間は潰すくらいあったので、大人しく待つことにした。  電話口で進さんがため息を吐く。この人のため息は、いつもどこか女性的な色気があった。 『訊くのか』 「だって、お店で訊いたらお金取るじゃないですか」 『そういうビジネスだからな』 「それは知ってますけど……でもこれはあれです、友達同士の駄弁りの一環で」 『あーあー、可愛くねえ。二十歳の頃の可愛げは誰に殺されたんだ』  進さんの声を聞きながら、掠れた路面標示の、『ここで止まってください』の足形につま先を合わせる。身体測定で身長を測る時の計測器に似ている。俺は背が低いから、それがあんまり好きじゃなかった。 「生きてますよ。多分。でもほら、オレももう三十路ですし」 『そっか。うわそっか。はー、君、変わんねえな』 「秒で矛盾するじゃないですか」 『見た目の話だよ。そーか、そうなればもう君も俺と同じ、おっさんなわけだ』 「んん? 繰り上げ忘れてますよ、おじーちゃん」 『おい』 「あ、オレお年玉貰ってない。お年玉分割引して貰わないと」 『いーや、爺呼ばわりするからには、こっちが養って貰わねえとな』 「進さんのがオレより稼ぎ良いでしょう?」 『ふぅん。君は稼ぎを気にするようになったのか?』  目の前でトラックがゆっくりブレーキを踏んで停まる。ここの信号は早い。一拍置いて青になった信号を渡りながら、今度はオレがため息を吐く。 「進さんは、オレを何だと思ってるんですか?」 『……うーん。レッド』 「レッド?」 『あれだ。戦隊ヒーローのリーダー。あんな感じ』  褒められてる、のかな。この人はいつも、分かり易い言葉では褒めてくれない。  電話の向こうでそれを感じ取ったのか、進さんはふふ、と鼻で息を吐くように笑う。 『褒めてるんだよ。考えなしに突っ走る、光みたいな奴だ。正義の味方で、象徴。誰かが困ってたら手を差し伸べずにはいられない。それこそ、稼ぎよりも人のため、って価値観でな。自分の損も顧みない』  それは、買い被り過ぎだ。そう云おうとしたところで、進さんが細く息を吐く。煙草を吸っているんだろうか。 「……オレだって、少しは変わってるんですよ。少なくとも、交番勤務から刑事にはなりました」 『そう』 「それから、この前嘘を吐きました」 『それは意外だな』 「ビルから突き落とされた人がいたんです。足から落ちて、下半身が潰れてて、呼吸も浅くて。助からないな、って思って」  ああ、駄目だ、と。不誠実なことを思った。  オレはその人の命を諦めた。きっと昔のオレなら、応急処置をして、ずっと励ましていた。諦めないで、必死に繋げようとしただろう。でも。 「オレその人に、『頑張れ』じゃなくて、『大丈夫』って云ったんです。もう大丈夫、すぐに迎えが来るから、大丈夫、って」  そのすぐ後に、その人は死んだ。それを聞いた進さんが、向こうで噴き出す。 「何が面白いんですか」 『いや、悪い。それで悩んでる君が、愛しくてな』 「……褒めてます?」 『一応な。少しだけ大人になったレッドみたいで、君らしい、随分優しい嘘だ。でも君は今、嘘を嘘って認めたから、それもチャラになった。ってか、大丈夫なんてアバウトな言葉、嘘にはならねえよ』  進さんが言葉を止めるのと同時に、足を止める。もう集合場所のバーの目の前だった。ドアに掛かっている『close』のプレートに触れて、訊ねる。 「あの、到着しました。進さん、あとどのくらいで着きます?」 『あー、一五分くらいじゃないか。ああ、でも今日は信号に引っ掛かるな。二〇分だ。すぐそこのマックにでも入っとけよ』 「了解です。で、結局今何を?」 『親山羊を見に行ってた』 「えっ、動物園ですか」 『違う。狼を殺した奴だよ』  一瞬遅れて、記憶が繋がる。脳裏に浮上した面影と名前をなぞるように、進さんが云った。 『小鳥居尊(ことりいたける)が、今日出所したんだ』
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