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縋り付く悪食
一月の一七時みたいな暗さの、明かりの点いていないコンクリートの部屋に、俺は立っていた。
それから、複雑な気持ちになった。目の前には、分厚いガラスで作られた、立方体の大きな水槽が置いてある。その水槽は深海を閉じ込めたように、青い、暗い水で満ちている。
その中に一人、男がいる。
強い光のような真っ直ぐな視線で、俺を見つめている。
彼の短い髪が、風に煽られるみたいに揺れていた。意志の強そうな太く短い眉が、狭い額に皺を寄せている。ぱっちりとしたアーモンド形の左目の淵の、小さなホクロ。俺よりもやや背の低い彼は、少年のような愛嬌もあるせいで、現役時代からあまり背広が似合わなかった。
彼の名前は、一之瀬涼。俺の先輩にあたる、一課の刑事だった。
先輩はずっと何かを叫んでいる。口から吐かれた言葉の詰まった泡が、水槽の天井まで上昇して、壊れて、消えていく。そこに空気は溜まらない。俺には何も届かない。それでも先輩は、歌うように、何度も何度も聞こえない言葉を紡ぐ。
俺は首を振る。彼をここから出すことは出来ない。今まで何度も試したことだ。でも水槽の蓋は空けられない。開けようとすると、先輩は内側で首を振る。でも彼が空気を吐き尽くして窒息する様子もない。
俺は、水槽に触れる。すると内側で先輩が、悲しそうに顔を歪めた。
「……分かってますよ。もう、分かってるんだ」
これは夢だ。数年前から、繰り返し見ている夢だ。
この夢を見たら、俺の周りで人が死ぬ。
そして初めてこの夢を見た時、一之瀬先輩は、俺の前から姿を消した。
土曜日の朝、水垢でくすんだ洗面台の鏡の中には、いつも以上に幸の薄そうな男の顔があった。
俺が右手で歯ブラシを握って歯を磨くと、鏡の中のその男も、左手で歯磨きを始める。
一之瀬先輩がいなくなったのは、三年前だ。
彼は理想的な正義の味方だった。不器用で、誠実で、たまに愚直で。でもその真っ直ぐさは清々しく綺麗で。愛されやすい、根っからの善人だった。
一之瀬涼はその愚かさを自覚していた。
自分の弱さを知っていた。
だから何度も何度も、助けたものに、信じたものに裏切られ続けた。
それでも、彼は正義や正しさといった、大きな名前の不明瞭なものに、固執できる人間だった。
彼は光だった。屈折しない、強い光。そう比喩できる存在だった。
だから俺も、彼のことを尊敬していた。
その事実は全て、もう、どうしようもない過去形になった。
ほんの短く、息を吐く。
俺はずっと心的に、一之瀬先輩に依存し過ぎている。だからきっと、あの人の夢を見ている。あの人がいなくなって、俺は多分、無性に寂しいんだ。
圧倒的正義の味方。ハッピーエンドの主人公。そんなあの人を死の象徴にしてしまった。罪悪感と情けなさ。
これは俺の、一之瀬先輩からの親離れに似た何かなんだろうか。彼を嫌うための無意識なんだろうか。
だとすると俺は、あの夢の中で、彼の亡霊に何を叫ばせているんだ。
俺は水道を捻って、片手で水を受ける。それで口をすすいで、洗面台の横に取り付けた、安物の白いプラスチック製のカゴを漁る。普段滅多に使うことのないシェービングクリームを、底の方から引き上げる。
そいつを適量掌に取り、顔に塗りたくりながらカミソリに手を伸ばす。しばらく使っていなかった、剥き出しのまま放置されていた刃の端が、軽く錆びていた。替えはあったようななかったような気がしたが、探すのも面倒で、今日は構わずそれを顔に当てた。
揉み上げを揃え、ついでに伸ばしっぱなしにしていた眉も整えておく。
いつもは電動シェーバーを使っていた。でも、今日くらいは一応、身なりを整えておかないといけない。
最後にカミソリで丁寧に髭を剃ったのは、いつだっただろう。
だって俺の職場は、男所帯だ。常にむさ苦しく、清潔感なんてものはない。ヒエラルキーは役職と、男臭さで成り立っている。
刑事課なんて、そんなものだ。
カミソリを置き、クリームを洗い流して顔を上げる。剃り残しとむさ苦しさはそれなりに消えたが、濃い慢性的な隈と、眉間に深く刻まれた皺は残ったままだ。
ワックスをすくって掌で伸ばし、寝癖と一緒に後ろへ撫で付ける。
こんなもんだろうか。
もう一度息を吐く。そこで、酷く自分が情けなくなった。
あの夢で確信してはいた。彼女の死を。
どうして俺は泣いていないのだろう。どうして、こんなにも無心でいるのだろう。
なあ、俺。
鏡の中の俺が、恨めしそうに俺を睨みつける。それが居心地悪くて、俺はすぐに視線を外した。
『こら、ちゃんと目を見て』
彼女はいつもそう云っていたが、こんな顔に見つめられるのは、気が滅入るだろうに。
ベタベタの手を流し、棚の取っ手に引っ掛けたタオルを引っ掴んで顔を拭く。昨日変えたばかりだというのに、湿った埃のような臭いがした。
それを洗濯機に突っ込んでから、俺は洗面所を出る。それから、携帯端末を探す。
葬式ってのは、何が必要だったかな。
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