縋り付く悪食

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 恋人が燃やされて死んでいた。  一週間ほど前から行方不明になっていた。見つかったのは、県境にある、四〇年程前、昭和最後の年に廃校となった木造建築の小学校の校庭。彼女の死体は国旗掲揚のポールに渡されたワイヤーで、首を吊るされていた。  焼死体ってのは、筋肉の収縮でボクサー体型になる。その手足を無理に引き延ばされ、両手を後ろに縛られて、麻袋を被せられていた。裂けて、ところどころ鴉に突かれて、炭になった皮膚から垂れた体液が、コンクリートの土台に赤黒い染みを作っていた。  現場でそれを見た時、俺はそれが彼女であるのを知らなかった。  後に、彼女と同じような焼死体が、その小学校の校内のあちこちで六体見つかった。全て、恐らく焼却炉で燃やされた後に手を加えられたのだろう、と鑑識が云っていた。  計七人の怪死体。そのうちの二体は、今も身元が分かっていない。発見者は近くの農家の老人で、深夜の現場近くで物音がしたので出てみると、遠目から、兎の被り物をした男を見たのだと云う。たまに好奇心の強い若者が、肝試し動画の撮影をしていることもあり、その時は特に気にしていなかった。だが翌朝ポールに吊るされた黒い物体を見つけ、近づいてみると死体だった。というわけらしい。  すぐに捜査本部が立ち上げられたが、彼女の身元が判明した後、俺は捜査から外された。  その三日後に、休みを取った。その日が彼女の葬儀だった。  死に顔は、捜査資料の写真で見たのが最後。死に化粧もなく、棺桶の蓋は開かないまま、彼女の遺体は火葬場に連れて行かれた。トリミングされた笑顔の遺影は、やつれた彼女の母親が抱えた。  閉ざされた棺桶に向かって最後の別れを告げて、遺族が広間の方に集まっていく。俺は最後まで火葬炉の鉄の扉の前に立っていたが、結局その時も涙は出て来なかった。 『ねえ、また、泣かないんだ』  記憶の中の彼女が云う。彼女は話す前に、二文字の感嘆詞をつけるのが癖だった。休日はよく二人で映画を観ていた。彼女は子供向けのアニメ映画でもティッシュを手放せないくらい、涙脆かった。 「もう少しいらっしゃいますか」  割って入るように、リアリティのある声が聞こえた。振り返る。すぐ隣に葬儀屋の女性が立っていた。 「あぁ、すみません」  どこか意識は上の空にあった。葬儀屋が、綺麗に作った笑みを浮かべる。 「構いませんよ。親族の方々のところには、居づらいでしょう」 「まあ……」  返答に困ることを訊く。曖昧に返して、視線を火葬炉に戻す。  知り合いではないが、どこかで見た顔だと思った。海外映画を観る時に似た感覚だ。見た顔だが、どこの誰だったのかははっきりと覚えてない。 『ふふ、君は洋画が苦手なんだね』  苦手ってわけじゃない。ただ少し集中力が要るんだ。アクションシーンは、邦画よりも派手で好きだ。そんな話しをした。 「私、明乃(あけの)のエンゼルメイクの予約してたんです」  ぽつりと葬儀屋が小さな声で漏らす。聞き慣れない単語だ。一人で明乃の亡霊と会話するか迷い、でも結局生きている人間を優先して、訊ねる。 「エンゼルメイク?」 「死に化粧ですよ。どっちが先に死ぬかは分からないけど、先に死んだ方のエンゼルメイクをするって約束をしてました。結局、出来なかったんですけど」  ああ、と相槌を打つ傍らで、思い出した。彼女は、明乃の友達だ。明乃の遺影になった写真に、本来明乃と一緒に写っていた女性だ。  視界の隅で葬儀屋が、短い髪を掻き上げるような仕草をした。女性用のシャンプーのような整髪剤の匂いと一緒に、線香とは違う、煙の匂いが髪から散る。懐かしい匂いだ。ああ。この人は煙草を吸うのか。  それから、ふと思い立った。 「……あの」 「はい?」 「煙草を一本貰えますか」 「煙草? ああ。良いですよ、ここ喫煙所ないので外に」 「いえ。その。火は、要らないんです」  短い沈黙が落ちる。葬儀屋の視線が痛くて、俺はじっと火葬炉を見つめる。祈るような気持ちだった。女性のヒステリックな声が苦手なのを、今更思い出す。叫ぶだろうか。罵るだろうか。さすがに軽率だったか。  軽く後悔を弄んでいると、葬儀屋の短い息が聞こえた。目線だけ向ける。彼女は数回、浅く頷いた。 「では、私は先に戻っておきます。ご家族様の皆様と、お話したいこともございますし」  それが彼女の配慮であるのは、すぐに分かった。葬儀屋はポケットから煙草の箱と携帯灰皿、それから名刺を取り出して、両手で差し出す。  それを受け取ると、彼女は火葬技師の元へ小走りで向かった。一言二言交わすのが見えて、すぐに戻って来る。 「お待たせ致しました。どうぞ、ごゆっくり」  浅く頭を下げて、上げる。短い髪の隙間から、細めた目を覗かせて、葬儀屋は不意に俺を睨むように見上げた。嫌な寒気が走って、背筋が伸びる。それは、確かな殺気だ。 「……これは貸しだから。後のことは、頼むよ。何かあったら(・・・・・・)、葬儀社に連絡しておいで。仕事柄、『処理』は得意だからさ」  頷くのに、少し躊躇った。気圧されたと云った方が良いだろうか。 彼女には、それが伝わったのだろう。もう一度、今度は困った風に、短く笑う。 「なんて、刑事さんに云っていい台詞でもないか。でも、良い? 一つ気を付けておいて。煙の匂いのする女は、良くも悪くも、変わった奴が多いの。くれぐれも、敵に回すようなことはしちゃいけないよ」  彼女は深く呼吸をして、「葉は詰めないように」と云い残し、俺に背を向けた。  火葬技師が、火葬炉の窓から伸ばした棒を使って、蠟燭の先に火を灯す。  その火で、俺は葬儀屋から貰った煙草に火を点けた。  フィルターを唇に当て、軽く吸う。無風の室内に、半透明の細い煙が上がる。  泣かなかったせいだろうか、味覚が酷く澄んでいた。久しぶりの煙の味。禁煙してから、しばらく経っていた。でも煙の食い方は、体が覚えている。鼻に残るのは、恐らく恋人の死臭だ。  情けない。情けないな。  吸って、吐く。吸って、吐き出す。少しずつ先端の火が赤く大きくなる。慌てて吸うな、下手くそ。煙の味が、雑味が、強くなる。  煙を吸う。彼女の死体を燃やす火で、俺は微量の毒を吸う。彼女の火で寿命を削る。緩やかな自殺。  奇妙な感覚だった。軽いマスターベーションのような、背徳的な快感。ヤニクラだろうか。少しだけ、立ち眩みのような、視界の暗転があった。  ああ。ああ。悲しい。悲しいんだな、俺は。でも、どうしていいか分からないんだ。  背広に灰が落ちた。それを見下ろした時、赤い粘液が灰の上に落ちた。  顔を触る。鼻の奥に、針で突くような痛みがある。掌を見ると、べったりと血がついていた。鼻先を親指で拭って、鼻血が出ているのだと分かった。視界の隅で、火葬技師が慌てているのが見えた。 『大丈夫』  彼女の口癖だ。 「大丈夫です」 『大丈夫だから』  何が。何がだよ。  唇に垂れた血を舐めて、俺は天井を仰ぎながら、フィルターのギリギリまで煙草を吸った。  不思議だ。  死臭は、こんなに甘い香りだっただろうか。
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