縋り付く悪食

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 年金制度が完全に破綻した。給与を上げないまま増税を繰り返したせいで、国民の生活は増々困窮していく。増やした税金だって、その大半の使い道は明言されないままだ。技術が発達し、AIがあらゆる職業に取って変わっていく反面、人間の就業率が著しく下がっていった。  結果、国が国民の生活に責任を取れなくなった。そこで昨年より導入されたのが、安楽死制度だった。  『適性者管理局』はそうして出来た、国民の安楽死を担当する新たな独立機関だ。  適性者管理局は、そこに所属する管理局員と、実際に安楽死を執行する『執行人』との関係により成り立っている。自ら死を望む自殺志願者は、ここでカウンセリングの後『自殺許可証』を発行され、死に方を選んで死ぬ、という流れだ。  その拠点はこの国の主要都市に置かれた、小綺麗な高層ビル。アイスピックで丸く削る前の氷みたいに、直方体の角だけが削ぎ落とされた、ガラス面積の多い建物だ。  談話室を出た俺は、小鳥居さんについてエレベーターに入った。一三階のボタンが点灯し、箱が静かに上昇する。  その間、小鳥居さんは何も話さなかった。俺も黙って、彼の背中を見ていた。皺も糸くずもついていない、喪服のような潔癖な背広だった。  微かな浮遊感。エレベーターが停まる。扉が開きかけた時、不意にどん、と何かがぶつかるような音がした。 「二度とそのスカした面ァ見せんな、ジーマ!」  扉の向こうで吐き捨てるように云った男が、俺たちを見て、一瞬驚いたように目を見開いて、片眉を上げた。  小綺麗な建物には合わない男だ。伸ばしっぱなしのぼさぼさの髪を押さえるように、バンダナを巻いている。黒のジャンパーを羽織っているが、中の服装からして鳶職だろうか。随分ガタイが良い。刑事の俺よりも染み付いた男臭さがある。 「おや。馬佐良(ばさら)さん、お疲れ様です」  馬佐良、と呼ばれた男は、相手が小鳥居さんだと気付くと、どこか居心地が悪そうに眉をひそめる。彼は小さく、ああ、と呟いて、俺たちが降りるのを待たず、エレベーターに乗り込んで来る。  小鳥居さんは一階のボタンを押してからエレベーターを降りた。俺もそれに続くと、馬佐良さんは殴るように閉のボタンを押す。  ああいう、行動が煩い人間は苦手だ。だが虚しさに似た哀れみを感じたのは、場所が場所だからだろう。役人の格好をしていないところ、局員ではなさそうだ。ああいう奴だって、死にたがるくらい悩んでいる。  扉が完全に閉まったのを見て、小鳥居さんが云った。 「彼は執行人、馬佐良大地(だいち)」 「執行人? 今のが?」 「意外だった?」  ふふ、と彼は声に出して笑う。 「執行人は確かに、人殺しのプロだ。彼も然り。だが、犯罪のプロというわけではない。人を殺す才能と、それを隠す犯罪の才能は別物だ。人を殺す才能を持つだけの人間なら、実際の殺人者以上にいるものだ。犯罪者にならなかったそういう人間の一部が、執行人になる」  小鳥居さんを見ると、彼もまたこちらを見て笑っていた。その視線が、君もまた例外ではないかもしれない、と言外に伝えているのを感じる。 「彼とはまた会うことになるだろう。名前と顔くらいは、覚えておくと良い」 「その前に、アンタがちゃんとご自身の容疑を晴らすことですね」 「それは間違いない。でも彼は、『焼殺』の執行人だ。私と違って、それが専門のね」  そうか、ならあの人も容疑者に。ポケットのナイフが、微かに質量を増した気がした。 「恐らく、今来た警察と話をするのは、彼だろう。さて」  小鳥居さんが振り返る。その視線を追って、ぎょっとした。  ほんの三歩分離れたところで、大柄な男が両膝をついている。たった今起き上がったというような感じだ。思わず駆け寄ろうとしたところで、靴の先がカシャン、と何かを蹴飛ばした。  白い床を滑り、男の膝に当たって止まったそれは、角ばったフレームの眼鏡。その物音に気付いたように、男がついと視線を上げる。  目が合う。途端、息が詰まる。  涼やかな、と云うよりも、冷ややかで鋭利な青い瞳。それが睨みつけるようにこちらを捉える。三〇代後半くらいだろうか。彫の深い目鼻立ち。それから白に近いブロンドヘアと云うのか、明度の高い複雑な色の髪は、日本人のそれではない。  彼は右腕一本で体を起こし、床を探る。その指先が眼鏡に触れ、持ち上げ、顔に掛けるまでの一連の動作を、その片手だけでやる。そこでようやく、彼のシャツの左袖に結び目があることに気が付いた。 「また担当者と喧嘩かね? ジーマ」 「うん……? あれ、尊さん? 確かお客さんとお話し中では」 「場所を変えるんだ。君はコンタクトにした方が男前だよ」 「いやぁ。片腕じゃ、コンタクトつけられないので」  眼鏡を掛けた途端、ふっ、と彼の表情から力が抜けた。  左腕のない、外国人。舌の根が日本語の発音と合っていないのか、流暢な喋りではあるが、どこかつっかかりがある。  彼はちょっと息を止めて、右腕だけで体重を支えて、立ち上がった。 「ああ、もう一人いらっしゃったんですね。すみません、お見苦しいところを」 「彼は、管理局員のドミトリー・アレクセイエヴィナ・ヴォルフ。こちらは刑事の堀総司(そうじ)君だ」  小鳥居さんが、俺と男性を交互に見ながら云った。紹介された彼の名前に、先程から呼ばれている、『ジーマ』が含まれていないことが気になった。 「堀君。そう、君が、明乃ちゃんの」  やや見上げるくらいの顔の高さで、彼は柔らかく笑う。 「ジーマ。呼び方はそれで結構だよ。ドミトリーの略称をそう云うんだ。日本語じゃ分かりにくいけど、ロシア語のスペルでそう略す」  ジーマさんはそう云うと、灰色のスラックスで軽く掌の埃を払ってから、そっと右手を差し出してきた。
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