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先程までいた談話室の次に通されたのは、デカい氷の塊の、気泡の一つのようなオフィスだ。入って向かい側と、左手側がガラス張りになっている。光がよく入るような間取りだが、余計な眩しさはない。ガラスを通して差し込む冬の光は、薄青を帯びて空気を色付けている。特殊な窓ガラスなのだろう。
小鳥居さんは一旦、自分のデスクの方に近付いて、ノートパソコンを開いた。ジーマさんがそのまま、オフィスに座る何人かに会釈をしながら、俺を隣接する会議室に通してくれた。ここもドアから向かって正面がガラス張りになっている、明るい室内だ。
コの字に並んだ長テーブルに促され、席に着く。ジーマさんが隣に座って、口を開いた。
「寒くない?」
「いえ、大丈夫です」
「そう。……明乃ちゃんのことは、僕もとても残念だ」
「あの」
「うん?」
「明乃は、ここに何か関係が?」
ジーマさんが微かに目を見張る。
「あれ。知ってたからここに来たわけじゃないの?」
「いえ……その、素人の殺しではなかったので。焼殺に慣れている人間の犯行かと思って……現場からも近いですし」
話しながら少し悩んだ。勝手に捜査をしていることは、出来るだけ人には話さないでおこうと思っていた。
『あら、君は嘘が下手くそなの、忘れたの?』
眉をひそめる。それは相手が君だったからだろ。初対面の相手には、バレない。
『大丈夫だよ』
勝手な奴。いつもそうだ。冷蔵庫に買っておいたプリンは勝手に食うし、勝手に人の部屋を掃除して、勝手に俺の服を着て、勝手に俺のベッドで寝ている。隣で眠ると勝手にくっついて、勝手にキスをするんだ。
そういう奴だ。無根拠に『大丈夫』だなんて云う。こんなに悩んでるのに、平気で笑い飛ばす。
『ほら、何とかなるから、大丈夫。信じて』
ああ。くそ。
俺は、正式な捜査資料を貰っていない、というのを説明した。小鳥居さんに見せたのも、俺が捜査に参加していた最初の頃のものだ。小鳥居さんを疑っていることも話した。それから冷静に考えて、これは手掛かりなのでは、と気付いた。
明乃と小鳥居さんの接点。それを探れば、動機になり得る。
話し終えると、少し考えるような間があって、ジーマさんは納得したように頷いた。
「なるほどね。だから談話室から出てきたんだ。そう……堀君。僕の口から伝える野暮を、どうか許して欲しい」
ジーマさんのような丁寧な人がこんなところで働いているのに、違和感があった。ジーマさんも小鳥居さんも、対話の時に口角を上げる。だが彼には、言葉を選ばずに云えば、ビジネススマイル特有の胡散臭さがない。
誠実なのだと思う。だからこそ、彼にこんな血生臭い場所は似合わない。
「明乃ちゃんは、ここの職員だったんだよ」
不規則的に鼓動が跳ねた。水の中で聞く、泡の音に似ていた。
「嘘だ。明乃は、カウンセラーですよ。資格も持って……」
「どちらも嘘じゃない。だって、僕もカウンセラーだ。尊さんも、一応ね。管理局には、死にたがる人が来るから。許可証を発行する前に、きちんと資格を持った局員が、カウンセリングを行うんだ」
ジーマさんは一瞬、言葉を止める。俺が口を開くかどうかを確認して、それから、と続けた。
「彼女自身も、自殺許可証を持っている」
「は……?」
「僕が発行したんだ。カウンセリングもした。データも残ってる。捜査の上で必要と云うなら、録画した映像も提示できるよ。ああでも、誤解しないで。別にあの子は、積極的に死にたがっていたわけじゃない。遺書、というか。自分が死んだ時、万が一その責任を誰かに担わせたくないって、そういう意味で、持っていた」
「待ってくれ」
反射的に出た声が、酷く乾燥していた。
彼はゆっくり、読み聞かせるように語っていた言葉を、素直に止める。色素の薄い瞳で、俺の動揺を静かに見つめる。哀れみも、非難も、同情も含まず。ただ、優しく待っている。
『ほら、大丈夫だよ』
彼の瞳と、明乃の声が重なる。
だから理不尽に責めることもできなかった。行き場のない激しい感情だけが、ぐるぐると俺の内側を舐めて、言葉を詰まらせる。
今俺は、随分情けない顔をしていると思う。対面している男に、叫ぶ言葉がなかった。否定したいのに。でも。
きっと海に向かって叫ぶように、氷雨を憎むように、無意味なことだと、感じた。目の前の男が、急に大きく恐ろしく見えた。
「なんで、……」
意味のない疑問。うん、とジーマさんが、相槌するように、喉の奥で呟く。
どうしようもない悲しみがあった。彼女の遺骨を見た時以上に、彼女の死を突き付けられているようだった。
彼女は、俺の知らないところで、死ぬのを認めていた。死を受け入れて、大丈夫だなんて云っていた。
ふと、それに妙に納得した。だって。
『だって、最悪死ねば良い』
「――止めろ!」
亡霊のくせに。
耳を塞ぐ。頭を倒して蹲る。
『いつでも死ねるって、それって凄く、安心できることだと思わない?』
止めろ。お前は過去だ。亡霊は過去の声だ。明乃の云っていないことを、彼女の声で囁くのは止めろ。
目を閉じて亡霊を追い出す。その傍らで、冷静な思考があった。
許可証を持っていた。明乃が。なら、その死因が執行人による犯行なら。小鳥居さんが彼女を殺していたなら、それは法律上認められた死になる。執行人による犯行で、被害者の、彼女の自殺になる。
ふざけんな。
ふざけんなよ。
『だってそういう世の中なんだよ』
ああ、ああ、うるさい、うるさい。彼女の声で喋るな。
爆発しそうな感情で、叫ぼうとして、息が詰まった。それが泣く時のしゃくりだと自覚した途端、遅れて涙が零れる。
くそ。くそ。くそ。なんで今なんだ。俺の涙は、いつも、今更って時にしか出てこない。
あんな死に方しといて、自殺? そんなわけあるか。燃えた顔、誰だか分からないくらい、黒焦げで。溶けて、顔の皮が麻袋にへばりついてて。眼球も溶けて。あんな、頭蓋骨みたいな顔になって、顎が裂けるくらい、苦しんだのに。自殺? あれが、安楽死?
『ここは、死に方が選べるだけだよ。オーダーメイドの自殺。素敵じゃない』
うるさい。
目を開く。ポケットを探る。あった。ナイフ。夜闇のように暗い視界の中、刃を出して、耳に当てる。切り落としてしまえば。
その刃先が皮膚に触れる直前、ナイフを握っていた右手が、乱暴に跳ね上がる感覚があった。
「こら、私の云い訳を聞いてくれるんだろう?」
クリアな声。同時に目の前がぱっと明るくなる。会議室? そう思った瞬間、視界が大きく回る。顎先を机にぶつけたところで、身体が動かなくなる。
金縛りか、と思った時、頭上から声がした。
「君、連れて来たな……?」
囁き声くらいの大きさだが、身が竦むような低い声。それから、ため息。
「さて。堀君。個人的には、君のカウンセリングをしてやりたいが、どうかな」
甘い声に、魔法が解けていく。寝覚めに似た感覚。
「……小鳥居、さん?」
「正気に戻ったようで何よりだ。話は出来そう? また暴れるようなら、このまま話すが」
小鳥居さんの声が首のすぐ後ろで聞こえた。同時に、肋骨が圧迫されて、息苦しくなる。そこでようやく、自分が机の上に押し付けられて、固められているのに気づいた。
思わず呻く。尊さん、とジーマさんが声を掛けるのが聞こえた。
俺は、改めて椅子に座らされた。俺が取り出したナイフは、あっさり返された。それがなんだか、何度やっても無駄だ、と云われているようで複雑だ。
ジーマさんに代わって、今度は小鳥居さんが俺の横に座る。資料か何かを印刷してきたのだろう、左手に持っていたコピー用紙の束で、苛立たしげに自分の膝を叩く。学生時代、悪さをして職員室に呼び出された時みたいな気持ちだ。もしかしてこの人、紙の束を持ったまま、片手で俺を押さえ込んだのだろうか。
少しの間居心地の悪い沈黙が続き、それからやはり学年主任の教員のように、小鳥居さんが口を開く。
「……困るな。私を犯人だと決めつけたのか? もう話を聞く必要もないと? 耳を、削いでまで」
「それは」
「いや。極めて理性的思考だ。だが世の人間は、理性以外のあらゆるものを捨て去った人間を、『狂人』と呼ぶ」
「尊さん。そんな云い方」
「今のは、私が取調室で、偉ぶった中年の警察官に云われた言葉だ。元はイギリス人作家の言葉だがね、それを指摘すると、その警官は酷く不機嫌になった」
ジーマさんの声を遮りながら云う小鳥居さんの眉間に、皺が寄った。それから、軽く首を振る。
「……私まで取り乱すのは良くないな。すまない、話を戻そう。堀君。恐らく山内君のことは、ジーマに聞いただろう。これは彼女の資料だ。彼女がここにいて、許可証を所持していたことの証拠にはなる」
そう云って、紙の束を俺に寄越した。一番上には、彼女のプロフィールがあった。
「ここで重要なのは、君自身も事件の関係者になり得る、ということだ。恋人が殺された。もし執行人による犯行だったとして、法が自殺だと云っても、間違いなく、辞書的な『自殺』ではないだろうからね」
俺は、どこかぼんやりとした気持ちでそれを聞いていた。水泳の授業終わりの更衣室みたいな。歳の離れた他人に叱られると、どうにも、学生の記憶を思い出す。彼の言葉に集中できなかった。
ずしりと、ポケットのナイフが重さを増した気がした。自分で耳を削ぐ気でいた。そう思うと、刃の触れた左耳の付け根が、ぞわりとする。
「堀君」
はっとして、小鳥居さんに目を向ける。彼もまた、俺の目を見つめている。
「ここに、かつて、今の君の分岐と同じ場所に立った人間がいる」
そう云って、甘い表情で、小鳥居尊が笑う。その底知れない冷気のようなものに、心臓が跳ねた。
そうだ。彼も。いや、だから俺は彼を疑ったんだ。
『七匹の小山羊殺人事件』。そこで唯一逮捕された男の名前が、小鳥居尊だった。
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