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令和五年一〇月の出来事だ。
三人の猟奇殺人鬼に目を付けられた一軒家があった。それが、小鳥居家である。
三人の犯人の内、二人は狼の覆面を、もう一人は黒い兎の覆面を被っていた、という目撃証言があった。
犯人は一階の風呂場の窓から侵入し、まずそこにいた長男を殺した。次いでリビングにいた長女、それから泊りに来ていた長女の友人二人。最後に、それぞれの寝室で眠っていた小鳥居の妻と両親。そしてその死体を、文字通り『食い散らかして』出て行った。
隣人の証言から、その日は酷く静かな夜だったらしい。殺人集団は迅速に、且つ物音を立てないまま、七人殺した。
そのせいだったのだろう。第一発見者が、仕事で家を空けていた小鳥居尊であったのは。
小鳥居尊は警察に連絡してすぐ、一人で犯人を追った。そして、拘束した狼の一人を、自分が所有する乗用車の中で、意識のあるまま焼き殺した。それが最も苦痛の伴う死に方だと、後に回収した小鳥居尊の携帯端末の検索履歴から出てきた。
だがもう一人の狼と、兎を殺す前に、警察が小鳥居尊を捕まえた。
それが、当時の一之瀬涼だった。
二人の犯人は、五年経った今でも、捕まっていない。
この事件自体、警察にとっては苦い思い出だった。
世間が、小鳥居尊を英雄と呼んだ。
ドラマチックだったのだ。小鳥居尊が、最も。家族を惨殺された男の復讐劇。そして警察は、それに横槍を入れた。その上犯人を捕まえられずにいる。
人を殺したにも関わらず、模範囚であった彼は、僅か三年の刑期で刑務所から出てきた。そのすぐ後に、一之瀬先輩が死んだ。そこからずっと俺は、小鳥居尊を疑ってきた。そうすると疑いは過去の小山羊事件まで遡って、小山羊事件当時、小鳥居尊自身にはアリバイがなかったことを見つけた。でも一之瀬先輩の時は、彼にはアリバイがあって、諦めるしかなかったのだ。
「ちょっとは落ち着いたかね」
赤信号で、ゆっくりとブレーキを踏み込みながら、小鳥居さんが云った。
黒いセダンの車内には、聞いたことのない女性アーティストの歌声が、ささやかに流れていた。小鳥居さんの運転は穏やかだったが、何となく居心地が悪かった俺は、窓にもたれて、交差点のところにあるドン・キホーテの看板の丸い文字を眺める。
セダンが停止すると、方向指示器のカチカチという音が、メトロノームのように鳴り始めた。それに合わせて、俺は適当な相槌を打つ。
「……お陰様で」
「ふふ。その歳になって人前で泣くことも、滅多にないだろう。たまには良い」
信号が青に変わった。今度はゆっくり、アクセルを踏み込んで、小鳥居さんはセダンを右折させた。
ジーマさんは明乃の調査で、捜査本部の刑事から聞き込みを受けていた。その間、俺と小鳥居さんは管理局を抜け出して、彼の車の中で話を聞くことになった。
方向指示のメトロノームが消える。音楽も曲と曲の間で、短く沈黙する。
少し迷った。でも、彼には個人的に云っておきたいことがあった。
「……俺は」
「うん」
「俺は、一之瀬先輩を知ってます。あの人の善性を。正義を。眩しさを。優しさを」
「うん」
「あの人は、アンタを救おうとしたんだ。家族の仇だろうが、人を殺そうとしたアンタを、止めようとした。アンタのために」
「うん。知っているよ」
「今のアンタを見て、あの人なんて云うと思いますか」
「さあね。でも多分、まったく同じ言葉を、君にも云うさ」
冷たい言葉だった。だが同時に、好奇心と楽しさを含んだ声だった。
頭を窓に預けたまま、俺は視線だけ、彼の横顔に向ける。
「私は、あの子を理解できなかった。だからあの子が何を云うかなんて、私に分かるわけがない。まあ間違いなく怒られるだろうけど。それは常に、俺があの子の対極にいるからだ。あの子にも、俺のことは分からないだろうね」
なるほど、と思った。小鳥居さんの言葉にではない。ずっと感じていた違和感に、気が付いた。
彼は今、人間を押し殺している。
内側にある人格を。多分、復讐者の小鳥居尊を。彼は今、適性者管理局の小鳥居尊だ。彼は彼なりに、変わろうとしているのだ。
『変化ってのは大概、成長だよ』
明乃の声だ。今度はちゃんと、過去に閉じ込めた彼女の声だ。
そうかもしれない。他人から見てそれが成功だろうが失敗だろうが、成長だ。
『ねえ、そう思う方が、楽でしょう?』
ああ。俺は亡霊との会話で頷く。そして小鳥居さんも今、俺と同じように亡霊と話している。
過去の話、今で云えば一之瀬先輩を語る時、過去の小鳥居尊が出てきてしまう。先程の言葉で、彼の一人称が『俺』に変わった辺りから、彼の顔が別人のように変わった。
でも。だからと云って、彼が小鳥居尊であるのには、変わりがない。
俺は続ける。亡霊にではなく、リアルタイムの人間に。
「俺にも分からないです。先輩のことは。でも、先輩はアンタを信じたと思います。そういう人ですから」
そうやって、何度も正義に裏切られて。誰よりも、その絶望に直面して。そして絶対に、その絶望に慣れようとせず、いちいち悲しんだ人だ。
「俺はあの人を、正義に呪われた男だと思いました。一〇〇回正義に裏切られても、たった一回報われれば、あの人はそれで良いんです」
「底なしの愚か者だな」
「それがとても綺麗でした。恰好良かった。だって一之瀬先輩自身は、絶対に何も裏切らなかった」
小鳥居さんの左眉が、ぴくりと上がった。
「だからこそ、俺はあの人を信じられた。あの人が一〇〇%の善で、アンタに立ち向かったのを、信じてる。……だから悔しいんだ。何も知らない奴らが、あの人に後ろ指を指してたのが。『余計なことしやがって』と云ってたのが。英雄って呼ばれたのが、アンタだったのが」
「英雄、か」
小鳥居さんが低い声で呟く。
「君は彼に、何を背負わせるつもりだ?」
口を開いて、でも言葉に詰まった。質問の意味が、あまり良く理解できなかった。
ハンドルを切りながら、小鳥居さんが続けた。
「……こんな称号、要らないよ。ただ重たいだけだ。理想化されて、自由ばかりが奪われる。刑務所よりも窮屈な言葉の鎧だ。だから私は英雄を辞めた。正義に背いて、人を殺しながら生き永らえている。そうすると、随分自由になったんだ。なあ。彼を呪っていたのは、本当に正義だったのか? 英雄も正義の味方も、そう崇められているうちは、『助けて』なんて云えないんだよ。だから」
一瞬、彼は俺に視線を寄越して、薄く笑った。
「だから、一之瀬涼は死んだんだ」
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