縋り付く悪食

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 夕方になって、日が沈む。気が付けば車は、明乃の事件現場近くの山道に来ていた。  だが、現場に向かう、という感じでもない。廃校に入る道を、彼は通り過ぎる。 「そういえばさ。それ、連れて来たんだ」  車の振動と一緒に俺の胸の上で跳ねるペンダントを見て、小鳥居さんが云った。シャツの中に入れていたはずだったが、慣れない首元の感覚に、無意識にいじっていたらしい。  明乃の遺灰を詰めたものだ。俺は小鳥居さんに貰った缶コーヒーを飲みきってから、窓に肘をつく。 「……家にあったので。本当は、一之瀬先輩のを入れるためのやつだったんです。でも、遺族の許可が貰えなくて」 「なるほどね」 「……警察って基本、二人一組なんですよ。あの人が死んだ時、俺はあの人とバディを組んでいました。だから、すぐ近くにいたはずなのに、助けられなかったって。怒られて」 「それは、随分勝手なもの云いだ」 「でも確かに、俺がもうちょっと早く見つけてれば、あの人は溺れずに済んだかもしれない。そう思うと、やっぱり」 「面白い表現だな」  横で小鳥居さんが笑った。山道の、他に車通りのない赤信号で、彼はゆっくりとブレーキを掛けた。 「何がですか」 「うん?」 「何が面白かったんです」 「気を悪くさせてしまったかな」 「いえ。普通に、気になって。俺、変なこと云いましたか」 「ああ。いや、君が『溺れる』って云ったことだよ」  ぱちん、と音がして、小鳥居さんが細く息を吐く。煙草に火を点けて、彼は数センチだけ窓を開けた。 「ガス中毒で死んだ人間に対して云う言葉にしては、詩的だと思ってね。深い意味はないんだ」 「ガス?」 「一之瀬涼の死因だよ。その話をしていただろう?」 「違う。あの人は、溺死したんだ」  一瞬、時間が止まったような沈黙が流れた。信号が青に変わり、小鳥居さんが少し遅れてアクセルを踏む。 「まさか。都会の真ん中の密室で、溺死?」 「だって。そうだ、コンクリートの部屋で、大きな水槽の中で」 「ニュースには、確かにガス死と出ていた。私も個人的に調べたんだ。彼には、世話になったから」 「俺が見つけたんだ。あの人の死体を」 「君は」  不意に、小さな黒い影がセダンの前を横切る。小鳥居さんがブレーキを踏み込んで、体がぐっと前に持って行かれる。  衝撃は、なかった。冬の夜道で猫でもいたのだろうか。小鳥居さんが横で、兎か、と小さく呟く。  俺は小鳥居さんの顔を見た。復讐者の小鳥居尊の顔。彼は車を出さないまま、正面を睨んでいる。 「……君は、誰の話をしている?」  彼は背広に落ちた灰も気にしないまま、咥えていた煙草を外に捨てた。それから、何かを堪えるような表情で、大きく呼吸をする。 「俺が愛した人間は皆、間違いなくガスで死んだんだ」  耳鳴り。耳の奥で、水の音が聞こえる。  おかしい。いや、一之瀬先輩の死因なんて、調べてみればすぐに分かることだ。そう。でも、俺は確かに溺れた彼を。あれ。あれ? 「あれ……?」  彼は、水死体、だっただろうか。  水槽の中で叫ぶ彼を。確かに、あのコンクリートの部屋には、水槽があった。入り口の扉に、掠れた赤の引っ掻き傷が。あれ。でも、水槽の中からは。でも。水槽で、深海で、彼は眠って。  あれは。 「あれは……」  夢、だっただろうか。棺で眠る彼の遺体は、確かに、綺麗なままだった。はず。  何故、俺は水死体だと思ったんだ。どうして彼が溺死したと思った。混同するほど、あの夢に、リアリティなんてなかったはずだ。水槽に、光を遮る深海は、閉じ込められない。 「堀君」  小鳥居さんの声に、はっとする。いつの間にか発進していた車は、山道を抜け、住宅街の方に差し掛かっていた。 「人の記憶は書き換わるんだ。ショックなものであればあるほど、却って簡単に。君は忘れたかったんだと思う。彼の死を。だが」  交差点に差し掛かったセダンが直進する。一瞬、信号の薄い青い光が、小鳥居さんの横顔を撫でた。 「死んだ事実ではなく、死を死で書き換えるのは、どうしてだろう。興味深いな。堀君、実はね。私は適性者管理局の職員と、執行人を兼ねている立場なのだが……私の執行人の肩書きには、最初に『特殊』という文字がつく。どういう意味だと思う?」 「どう、って……アンタが最初に云ったんだ。いろんな殺し方ができるって」 「そう。執行人は原則、一種の殺し方以外マスターしていない。その原則を破っているのは、私だけだ。と云うのは良く云ったもので、ただの補欠要員なわけだが。私にはもう一つ、特殊と云われる理由があってね」  彼の語り口は、教師に似ている。  小鳥居さんがハンドルを切る。セダンが完全に向きを変えてから、彼は続けた。 「私は、生きたくても死ぬしかない人間の執行人だ。命は殺さない。その人間が生きた事実だけを殺す。そして、別に作った新しい人生を与えるんだ。生きながらにして死ぬ、そんな逃げ道を提供しているんだよ」 「……偽者ってことですか」 「そうだね。でも、果たしてそれに、善悪は定められるか? 安楽死自体、意見が割れる。君からしたら悪かもしれないが、私に縋る人間からすれば、私は圧倒的な善だ」  そこで一旦、家まで送ろうか、と訊く彼に、俺は首を振った。電車はまだ動いていた。  彼は続ける。 「私はその時に、自殺志願者に暗示をかける」 「暗示?」 「軽い催眠術だよ。その先の人生、素人にずっと別人を演じさせるのは、大変だ。本人になりきって貰うための、暗示。マインドコントロール。云い方はいろいろある。カウンセリングの延長、と思ってくれ」  その人間であることを忘れ、新しい人間であると思い込めば、顔つきが変わる。声のトーンが変わって、趣味も変わる。次第に別の人間になっていく。  俺はどこか上の空で、彼の言葉を聞いていた。  酷く疲れていた。  一瞬眠気で意識を飛ばした時、俺は夢を見た。  明乃の夢だ。俺と明乃は、帰る時間が違った。よっぽどのことがない限り、俺はあいつより先に家に帰っていた。あいつはいつも、夜遅い時間に帰ってきた。 『開けて』  だからあいつが帰る時は、いつもドアの向こうからその声が聞こえた。 『開けてよ』  ただいまよりも先に聞こえる、甘えた明乃の声。
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