縋り付く悪食

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「堀君」  肩を揺すられる感覚で、目が覚める。 「駅、ついたよ。歩けそう?」 「ああ……はい。すみません」 「いや。今日は無理をさせたね。本当に送らなくて大丈夫かい?」 「大丈夫です。お世話になりました。またお伺いします」 「ああ、また、いつでも待っているよ」  車から降りると、小鳥居さんもシートベルトを外して、運転席のドアを開いた。甘くはにかむ彼は、もう今の小鳥居さんだ。  そのまま、彼は改札口まで見送ってくれそうだった。さすがにそれは悪い。俺は会釈をして、では、と断ってから、一人ホームに向かう。  人混みと駅の白い光を見て、ようやく、日常に帰ってきたことを実感する。  気疲れする一日だった。自分とは違う価値観の人間とばかり会って、いつも以上に死について考えた。やっと、長い一日が終わる。  息を吐いた時、誰かと肩がぶつかった。  ぱさり、と黒い布のようなものが落ちる。すみません、と謝って屈んだ時、首からペンダントがぶら下がっていないことに気が付いた。  落としたのだろうか。だがそう思った刹那、地面に落ちたそれを見て、思わず固まる。黒い布。それについている赤い目と、目が合う。  兎の覆面。顔を上げる。瞬間、体が強く後ろに引かれた。  白い直線がすぐ目の前を横切る。右の頬に、鋭く冷たい何かが走った。一瞬遅れてくる痛みが、急激に熱を帯びる。  よろけて尻餅をつく。顔を押さえると、掌に生温かい液体が広がるのを感じた。何故、血が。鼻血とは違う感触。周囲のざわめきに、いくつか悲鳴が混じる。  痛みにはっとして、目を凝らす。刃物。切れた顔を押さえて、刃物を持った相手を探す。いた。見上げると、先程目が合った赤い目の兎の覆面がいた。長身の、黒いシャツと背広。やや細身に見える。兎が握るナイフには、見覚えがあった。  俺ははっとして、ポケットを押さえた。いつの間に。  兎男は、俺がポケットに入れていたはずの短い折り畳み式ナイフを片手で回し、俺と兎男の間に立つ人物に向かって、首を傾げた。 「……小鳥居さん、」 「君、昔どこかで見た顔だな」  その言葉が、俺に向けて云われたものではないのは、すぐに分かった。  兎男の頭がぴくりと震えた。そう思った時には、予備動作もなく、兎男は小鳥居さんに切りかかる。  咄嗟に、俺は兎男の足を蹴った。バランスを崩した兎男のナイフを、手から叩き落とそうとして、だがその前に小鳥居さんが、何事もないようにするりと奪い取る。 「これは君の刃じゃない」  ぱちん、と刃をしまった小鳥居さんが、後ろ手で俺にナイフを投げる。  それを受け取って顔を上げると、小鳥居さんは俺の方を向いて、片手を差し出していた。 「大丈夫かい、堀君」 「……今のは」 「すまないね。逃がしてしまった」 「追わないと」 「武器は奪っただろう。君、自分じゃ見えてないかもしれないが、割と酷い怪我してるんだよ。良いからまずは病院だ。車に乗りなさい」  でも、と開きかけた口を、小鳥居さんの鋭い瞳が制した。
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