水飴

1/1
前へ
/1ページ
次へ

水飴

 広い大川を横切り下之橋に抜け、猪牙船(ちょぎぶね)は佐賀町の船宿「升田屋」の前を流れる油堀へ入った。  ここを通る船は皆、岡場所通いの客が利用する。すぐ側の船着き場では、黒い羽織を着た辰巳芸者(たつみげいしゃ)や派手に着飾った女郎が客を出迎えていた。  栄助(えいすけ)は片膝を立てたまま酒を煽ると、「升田屋」の二階の出窓の木枠に手を掛けた。升田屋は、下が料理屋で上が小座敷になっている。栄助は今晩ここの小座敷で、ある男と酒を飲む約束をしていた。しかし男と待ち合わせした時刻から、既に半時が経っていた。  栄助は、眼下に広がる油堀(あぶらぼり)に眼をやった。  妓楼の燈火を映す油堀の水面は色鮮やかだが、灯の無い所は仄暗く寒々しい。栄助はその水面を見詰めながら、今日あいつは来ないだろうと思った。  卯之吉(うのきち)とは、四年ぶりの再会だった。  互いに海沿いの村で育って、ここへ来る前は漁師をしていた。その後、海で怪我を負った栄助が夜逃げ同然で村を離れてからは、卯之吉どころか郷里の事は何も知らない。  栄助はきっちりと剃り上げた月代を撫でると、再び手酌で酒を煽った。  黒縮緬(くろちりめん)の羽織に鳶色の大縞(おおじま)を着た栄助は、一見富家の若旦那のようにも見える。だが黙々と酒を飲む栄助の目元は、堅気ではない、ひとを刺す様な鋭さがあった。 「あいつだってもう昔みてぇな、のろまなガキじゃねぇンだ。俺がどんな生業なのか、外で聞いていたら分かったはずだ」  今日は今川町で小間物問屋を営む、佐三の所へ取り立てに行った。佐三には、親分の為五郎が胴元を務める賭場に、七十両の借金があった。入婿の佐三は栄助の姿を見て目を剥いたが、栄助は構わず店の中でがなり立て、綺麗に並べられた売り物を滅茶苦茶にした。  卯之吉に会ったのは、その店を出てすぐだった。屑籠を背負った卯之吉は相川わらず眠そうな眼で栄助を見たが、その青ずんだ白目に浮かんだ涙を、栄助は見逃さなかった。  もしかして、こいつだけは自分との再会を喜んでいるのではないかと、咄嗟に思った。その淡い期待が、栄助の心を突き動かした。 「へッ、いいざまだぜ。くだらねぇ」  栄助が独り言ちると、不意に荒々しく店の階段を駆けあがる音がした。下から升田屋の女将が、何かしきりに叫んでいる。そして今度はそれを遮るほどの男女の悲鳴が、隣の座敷から聞こえてきた。 たどたどしく平謝りする男の声に、栄助は咄嗟に振り向いた。聞き覚えのある声だ—そう思った刹那、栄助の部屋の襖がスパンと開いた。 「―――栄ちゃん‥‥ッ!遅れてごめん!」  栄助の所までもつれるようにやって来た卯之吉は、棒に付いた水飴を栄助に差し出した。 「栄ちゃん水飴、好物だったろ?だけど買おうとしたら、金が足りなくてよ。金の足りない分だけ、飴売りの手伝い、して来たんだ」  卯之吉は息を詰まらせながらそう言うと、昔と違わぬ幼い顔で無邪気に笑った。  何処かで転んだのか、琥珀色の飴の先は砂で少し汚れている。  だがその水飴が、今はどんな豪華な妓楼の灯よりも栄助の眼には眩しく映った。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加