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水飴
広い大川を横切り下之橋に抜け、猪牙船は佐賀町の船宿「升田屋」の前を流れる油堀へ入った。
ここを通る船は皆、岡場所通いの客が利用する。すぐ側の船着き場では、黒い羽織を着た辰巳芸者や派手に着飾った女郎が客を出迎えていた。
栄助は片膝を立てたまま酒を煽ると、「升田屋」の二階の出窓の木枠に手を掛けた。升田屋は、下が料理屋で上が小座敷になっている。栄助は今晩ここの小座敷で、ある男と酒を飲む約束をしていた。しかし男と待ち合わせした時刻から、既に半時が経っていた。
栄助は、眼下に広がる油堀に眼をやった。
妓楼の燈火を映す油堀の水面は色鮮やかだが、灯の無い所は仄暗く寒々しい。栄助はその水面を見詰めながら、今日あいつは来ないだろうと思った。
卯之吉とは、四年ぶりの再会だった。
互いに海沿いの村で育って、ここへ来る前は漁師をしていた。その後、海で怪我を負った栄助が夜逃げ同然で村を離れてからは、卯之吉どころか郷里の事は何も知らない。
栄助はきっちりと剃り上げた月代を撫でると、再び手酌で酒を煽った。
黒縮緬の羽織に鳶色の大縞を着た栄助は、一見富家の若旦那のようにも見える。だが黙々と酒を飲む栄助の目元は、堅気ではない、ひとを刺す様な鋭さがあった。
「あいつだってもう昔みてぇな、のろまなガキじゃねぇンだ。俺がどんな生業なのか、外で聞いていたら分かったはずだ」
今日は今川町で小間物問屋を営む、佐三の所へ取り立てに行った。佐三には、親分の為五郎が胴元を務める賭場に、七十両の借金があった。入婿の佐三は栄助の姿を見て目を剥いたが、栄助は構わず店の中でがなり立て、綺麗に並べられた売り物を滅茶苦茶にした。
卯之吉に会ったのは、その店を出てすぐだった。屑籠を背負った卯之吉は相川わらず眠そうな眼で栄助を見たが、その青ずんだ白目に浮かんだ涙を、栄助は見逃さなかった。
もしかして、こいつだけは自分との再会を喜んでいるのではないかと、咄嗟に思った。その淡い期待が、栄助の心を突き動かした。
「へッ、いいざまだぜ。くだらねぇ」
栄助が独り言ちると、不意に荒々しく店の階段を駆けあがる音がした。下から升田屋の女将が、何かしきりに叫んでいる。そして今度はそれを遮るほどの男女の悲鳴が、隣の座敷から聞こえてきた。
たどたどしく平謝りする男の声に、栄助は咄嗟に振り向いた。聞き覚えのある声だ—そう思った刹那、栄助の部屋の襖がスパンと開いた。
「―――栄ちゃん‥‥ッ!遅れてごめん!」
栄助の所までもつれるようにやって来た卯之吉は、棒に付いた水飴を栄助に差し出した。
「栄ちゃん水飴、好物だったろ?だけど買おうとしたら、金が足りなくてよ。金の足りない分だけ、飴売りの手伝い、して来たんだ」
卯之吉は息を詰まらせながらそう言うと、昔と違わぬ幼い顔で無邪気に笑った。
何処かで転んだのか、琥珀色の飴の先は砂で少し汚れている。
だがその水飴が、今はどんな豪華な妓楼の灯よりも栄助の眼には眩しく映った。
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