7 きっとあなた負けへんでぇ

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ここは、この会社の関西初出店の マンションギャラリー。 「一番目の」と、気合の入った、 先ずは、会社のブランドを示すた めの、西の玄関口、ターミナル駅 の近くに造られた。 マンションギャラリー。 1階には、大きくて立派なロココ 調の螺旋階段や、接客ブースと、 シアタールームがあり、 このシアタールームでは、会社の 概要や、関東の既存の物件のご案 内など、 初出店の場所での、会社のイメー ジ戦略的な、自己紹介の様なもの を、来場されたお客様に、20分程 度のお時間を戴き、お見せするよ うにした。 2階は、会社のオリジナルの展示 コーナーを、エクステリア、イン テリアに分け、外装タイルや、玄 関ドア、室内ドア、床材、壁材、 などを並べ、 キッチン、システムバスなどの水 回りコーナーには、グレードアッ プのオプション品が並び、 カラーセレクトのコーナーには、 色見本も並べられている。 茉由のここでの、接客担当のお仕 事は、お客様がお越しになると、 お出迎えをして、ご挨拶「ようこ そぉ、お越しくださいましたぁ、 ご案内をさせていただきますぅ!」 と、少し、語尾を上げる、関東と は違う言葉での、お迎えのご挨拶 をし、お客様をご案内する。 今までの、茉由の関東でのご挨拶 は、キッチリ、マニュアル通りの、 ご挨拶だったのだが、 「いらっしゃいませ、ようこそ!  本日はご来場いただきまして、  誠に有り難うございます。  私が担当致します○○でござい  ます。それでは、どうぞ、  お進みくださいませ、  ご案内させていただきます」 とのひじょ~に長く、 ここへお越しになった、 関西の方々は、 茉由が頭を下げている間に、 どんどん奥に進んで往かれる。 まぁ確かに、 今までの関東風のご挨拶では、 病と闘っている茉由は、舌も 手術してしまっていて、 その為に、滑舌が?悪いので、 茉由にとっても、これは、 実は、ストレスの溜まるも のだったし… なので、 御自分の感情を素直に表に出す それは、有り難いことに、この、 鈍感な?茉由にも伝わりやすく、 このご挨拶だけに限らず、 良い面で? 関西の方々の事を、 温か味のある方々… と、茉由は勝手に感じている。 だから、茉由は、こちらのお客様 のご要望にお応えしやすくなるし、 まだ慣れずとも、本当に、ここは、 モチベーションも上がる職場 になった。 けれど、 さすがにここは関西一号店。 とにかく忙しい。 オープンしたばかりなので、現地 の応援スタッフはいるものの、 その現地スタッフは、関東から来 た、言葉数が少ない、 高井のことをちゃんと理解し、 動ける人はまだ少ない。 しかも、頼りになるはずの社員の 人数も、一匹狼の高井に、関東か らついてきたのは少人数で、万全 の態勢も、整ってはいなかった。 茉由は、かなり思いきって高井に ついてきたものの、まだ完全に健 全ではない体調も気になる。 何かあっては、家族に、 心配をかけ、 下手をすると、家族によって、 夫の待つ関東へ強制的に 戻されてしまう 可能性だってある。 しっかりしなければならない… ここでの茉由のスタートは、恋の 逃避行などと、あま~い、優しい ものではなかった。 そんな、厳しい現実の、 ここでの茉由の接客の仕事は、 先ず、館内のご案内では、ぐるっ と、一周しながら、商品・展示物 のご案内、ご説明をし、 そこが終わると、お客様がお疲れ にならぬように、接客ブースへご 案内し、 御着席されたお客様から、シアタ ールームの次の上映時間までの間 に、アンケートを取得し、 上映時間になったシアタールーム へお客様をご案内すると、 お客様が映像をご覧になっている 間に、茉由は一旦お客様から離れ て、営業担当へ引継ぎをして、 営業担当は、シアタールームから 出てこられたお客様をお迎えして、 また、接客ブースへご案内して、 着席いただくと、お客様のご要望 をお伺いする。 茉由は、お客様へお飲み物をお出 しして、そのまま、お客様が退場 されるまでお供し、 お見送りをする。ここでは、茉由 も関東とは少し、仕事が、違って いた。 高井は、ここでは、営業の最高責 任者となる。そうは云っても、少 人数のスタートで、何でもやらな ければならない。 関東から異動になった者は、高井 と、3名の営業担当と、茉由と、 たった、それだけの人数。 茉由は、本社からの人事の条件と して、 接客担当と、営業事務を兼ねての 業務担当としての、異動だった。 高井は、エリアマネージャーの、 リーダーのままだが、まだ、 関西では、 ここの他には、マンションギャラ リーや、営業所、支店がない事か ら、 このマンションギャラリーの、バ ックヤードの事務所にいつも居る ことになり、 業務担当の茉由とも、仕事中ずっ と、一緒に居た。 茉由は、高井の隣に座っていた。 そこは「お気に入り」の席。 でも、茉由も、「お気に入り」と云 えども、優雅に接客だけしていれ ば良いとのことなどなく、毎日が バタバタで、 この二人は、お互いの仕事のため に協力するなんて、忙しくって、 できることもなく、 それぞれの仕事で、コピー室に駆 け込み、睨み合いながら、順番を 争ったことも有るほど、 とても、ラブラブなカンジには程 遠くなっていた。 それでも、そんな二人っきりにな れるコピー室では、高井が癒され ようと、 茉由をバックハグしようとするの だが、茉由は、忙しいので、 6センチのヒールで、 高井の靴を踏んづける。 「イッテェ~、エ、ナァー!」、 高井は、茉由を睨みつけるが、 「失礼致しました、私は、急ぎま すので、暫く!お待ちください」 と、高井を睨み返し、作業を優先 させる。茉由はだんだん、強く? なっていた。 ここでは、高井と茉由の関係は、 今までの、高井が茉由を虐めるも のから、茉由が、高井を虐げるも のへと変わったのか、 このコピー室でのバトルは、 毎日の日課? 段々、高井と茉由のスキンシップ の場所となっていた。 茉由は、毎日の仕事として、 コピーは必ずあるので、作業効率 を考え、決まった時間に、その作 業をするようになり、 そうなると、それに合わせ、高井 もコピー室へ入ってくるように なった。 ここのコピー室は、パーテーショ ンで区切られただけの場所だが、 小窓もないドアを閉めると、壁に も窓が無いので、外側からもどこ からも見えない場所でもある。 マンションギャラリーには、ゴー ジャスなファニチャーも配置さ れ、モデルルームには、流行りの ソファーや、ベッドもあるが、 それは、ゼッタイに汚せないから、 ここのスタッフ達は、使用しない。 だから、 マンションギャラリーには、スタ ッフ達のくつろげる場所はない。 スタッフ達が、腰を下ろすのは、 バックヤードの事務用の椅子だ けだった。 それでも、新規獲得に、ここのス タッフ達は皆忙しく、外に出るこ とも多い。 そうなると、 いつのまにか、事務所に居るのは、 高井と茉由ぐらいだが、 それでも、 なお、高井は、人目を避けようと しているのか、 そんな「密室」のコピー室は、 高井と茉由の、た、め、の部屋に なっていた。 きっと、毎日が戦闘モードの高井 にとっては、身構えしないですむ、 寛げる空間だったのかもしれな い。 今日も、茉由がコピーをとるため にここへ入ると、高井がすぐに入 ってくる。 ここの広さは、たぶん3畳ほどの 狭さ。 備品のストック棚も有り、二人と、 コピー機で、イッパイのカンジ。 シャガムこともできない茉由が、 コピー機の用紙を補充しようと 前のめりになると、 その後ろに高井がピッタリ張り 付き、抱き着かなくても、バック ハグの状態になる。 茉由は忙しそうに、手を動かすが、 高井はただ、茉由の後ろから、 ニヤニヤしながら、茉由の髪をい じっている。 茉由は、接客担当。身だしなみは 大事。 高井に、髪をグジャグジャにされ ては困る。 茉由は、忙しいので、無言のまま、 コピー用紙を高井に押し付ける。 それでも、高井はチョッカイを止 める様子が無いので、 今度は、3枚必要なコピーを 33枚の設定にして、スタートボタ ンを押してみる。 カシャン、カシャン、カシャン、 カシャン、カシャン、カシャン、 カシャン、カシャン……、 「何やってるんだ!おまえ‼」 高井がコピー機を「強制終了」 させる間に、茉由は、コピー室か ら逃げ出した。 関西に飛ばされた高井は、もう、 闘う企業戦士ではなくなってしま ったのだろうか、 何だか随分、腑抜けなカンジ。 亜弥もあまり、関西へ来てくれな いのか、ひと肌恋しさも有って、 茉由にベタツク。 高井だって、ここでも、ソコソコ、 慣れない新しい土地でも、仕事は 熟していたものの、 ずっと、二人は一緒に居るせいか、 あれほど怖かった、高井のこんな 「普通」?な、面も、茉由には、 チョッと、気に障る。 けれど、こんな平和な日々は、 そうは、続かな、かった。 高井と茉由の関係が、 高井には心地よいようになって きた、 この長閑な事務所に、本社からの 突然の、辞令、「人事通達」が届 いた。 それは、突然の出来事、なにも事 前の内示もなく、 あの、 「エリアマネージャーの佐藤翔太」 が、ここへ異動になってきた。 「エッ! 翔太なの?」 こんなにまだ、ドタバタな中、 突然、登場した同期に、茉由は驚 いた、 「茉由! 久しぶり、でも、敬語  で話せ、俺は、おまえの、上司   だからサー」 佐藤から辞令を見せられた茉由 はキョトンとしたが、 「えぇ~?はい…、佐藤エリマネ、 お久しぶりで御座います!」 すぐに、親しみを込めて、 茉由は、素直に、 笑顔で、佐藤を迎えた。 「だろ!」 佐藤は相変わらず、爽やかな笑顔。 茉由には、優しかった。 「おっ、お疲れ!」 この二人に、あたりまえの様に、 高井は割って入る。 「お疲れ様です。 本日より、こちらに入ります。 エリアマネージャーの佐藤です。 宜しくお願い致します」 佐藤は、礼儀正しくお辞儀をした。 高井は満足そうにこれに応える。 「あ~、宜しく頼むな!」 高井はすっかり、気が抜けていて、 気付かなかった。佐藤が、あの、 GMの後輩と高井も知っているが、 タダの、人事異動、関東からの応 援だと思ってしまった。 けれど、佐藤は、 あの、高井の天敵の、GMのスパ イとして送りこまれた。 そして、この挨拶は、佐藤の宣戦 布告だった。 佐藤は、エリアマネージャーにな っていた。この佐藤、茉由の同期、 そして佐藤は、茉由を、変えた男。 高井は、それも、知らない。 6年前… ― 佐藤が新人の頃は、こんなに   仕事ができる男になるとは、   茉由は思ってもいなかった。   だから、 もう「上司」になった佐藤と、 どう向き合えば良いのだろう。 佐藤と茉由は、実は「同期だから」 こそ、仲が良いとのこと、このこ とは二人とも、ここで一緒に働く 者にはオープンにはしなかった。 佐藤は上司として茉由を扱いにく くなるし、茉由は、佐藤の急成長 について行けずに、頭の中では、 幼さの残る翔太がまだいて、スッ キリとはしないのに、 同期とみられれば、上司として、 佐藤と接するのには接しにくい。 だから二人は、皆の前では昔のこ とは伏せたまま、仕事をスタート させた方が、何事もスムーズにい くと思っていた。 「でも、茉由で良かったのかもし   れないナァ」 「な・に・が?」 「俺、お気に入りなんていらない  から。面倒くさいだけだし、  でも、いた方が、男としては良  く見えるのかもしれない、 『この会社』だったラッ、て、   思ってサァ」 「そう?」 「私は、我武者羅に頑張っていた  新人の頃とは違い、今はただ、  家の中に居たくないから働いて  いるようなものだし、」 「この空間は好きだけれど、別に  男好きではないから、チーフが  翔太で、私をお気に入りにして  くれたら安心して甘えられるか  ら、それはそれで嬉しいかなぁ   やっぱり」 「なら、良いか?」 「そうね、そうする 」 「よし! 分った」 「あぁ~、おまえは敬語で  話せ、俺は上司だから、サー」 「 はぁ~い 」 茉由はお道化て、腰をフリフリ振 ってみた。 「ゼンゼン、色気感じない!」 佐藤は厭らしくニヤニヤし、けれ ど、サッサと茉由に背中を向けて、 小走りで事務室に戻っていった。 「えぇ~? 私はお気に入りでしょぉ~」 茉由のこのフザケタ声は、佐藤に は届かなかったらしい。 それに、茉由には、佐藤の本当の 気持ちが伝わってはいなかった。 それからは、茉由は朝の仕事に向 かう足取りが変わった。 嫌なものから逃げ出す、頭の後ろ が鈍く痛くなることが無くなった。 それはまるで、アルバイト先に気 になる男子がいる学生気分で、茉 由は仕事よりも「チーフに会いに 行く」様になっていた。 常に頭の中は佐藤でイッパイにな る。 茉由は、「翔太」じゃない、仕事が できる男、「佐藤チーフ」に少しで もカマッテほしい。 いつも以上に、茉由は身だしなみ にも気を配り、通勤に着る服は、 どんどんフェミニンになっていく。 茉由は、頼もしい佐藤に、自然 と敬語で話しかけるようになっ ていた。 こんなに茉由が変化を遂げている のに、佐藤は相変わらずの仕事人 間で、ただ業務に集中している。 こんな二人、一緒に居ても、佐藤 は茉由に構わない、ことが多い。 たまに、他の、マンションギャラ リーから、販売状況の確認にと、 チーフ仲間が訪れてきた時、 仲間意識からか、サボりに来たよ うにくつろぎ、仕事をそっちのけ で、まるで品定めのように、女性 スタッフをチェックし、 ここのお気に入りである茉由をタ ーゲットに、その引き締まった足 首から、ゆるくカールされた髪先 までを、舐めるようにユックリと 目線を這わせる様にミツメルと、 佐藤はようやく思い出したように、 「おい!近過ぎるぞ!寄るな!」 と強く出る。 「フゥ~ン?」と、相手になった ワルノリのチーフが、さらに挑発 するように、茉由の横に座ると、 「ク・ド・イ! 離れろ!」 と、さらに語気を強めた。 間に入ってしまった茉由は、口出 しはせず、表情も変えないが嬉し そうだ。 こんな女になってしまった茉由は、 どれだけ自信過剰なのか、ゆっく りと撓るように立ち上がり、佐藤 の肩に両手を掛けて背中に廻る、 まるで雌猫のように。 座ったままでも逞しい、学生時代 には水球に熱中し、鍛えられた身 体はドッシリと、分厚い胸の上半 身はデスクに着いていても目立つ。 その広い佐藤の背中に茉由が隠れ ると、それに佐藤は満足そうに、 一度だけニヤリと口角を上げ、譲 らない。 貫禄を見せつけた大きな体で茉由 を隠したまま、忙しそうにデスク ワークを続けた。 こんな時、ちょうど良く温かい、 逆三角形の広い背中に隠れた茉由 は、こんな他愛無い些細な出来事 でも 「このまま、ずっと、    こうしていたい」 と、気持ちが大きく揺らいでいた。 だから、佐藤との間にある温度差 を、茉由は気づかない。 優秀な佐藤チーフがこのマンショ ンを売り切るまで、そうは時間か からなかった。 ここのマンションギャラリーが必 要とされたのは、たった2カ月ほ どだった。 最後の朝礼の後、佐藤は今後の皆 の行き先の説明を始めた。その場 には、チーフの上の立場にあるエ リアマネージャーの顔も有った。 営業担当の行先を告げた後、 茉由たち接客担当の行先が告げら れ始めた、 他の3人の女性たちは、これから 立ち上げの、かなり大きなタワー マンションに往くらしい。 だが、茉由だけは、同じ路線で 二つ先の、低層の億ションへ入る ことになった。 けれど、佐藤はそこの担当チーフ ではない。これにはここの皆が驚 いたが、 それには、佐藤と、朝礼に加わっ ていた、上司の、エリアマネージ ャーとの間に衝突があった。 エリアマネージャーは、いく つかの、新築マンション販売物件 を、同時にグルグルと、廻ながら みる。 マンションギャラリーのスタッフ を決めるのは、チーフに、権限が あるのだが、その上司であるエリ アマネージャーは、それに意見す る権限はある。 この時、これから忙しくなる タワーマンションも、このエリア マネージャーが視ていて、ここの 者は大半が、そこに加わることに なっていた。 当然、茉由も そこに入れようと、エリアマネー ジャーは考えていたのだ。 けれど、佐藤はそれに意見した。 なぜなら、茉由は気づかなかった が、ここで働いていた接客の女性 たちからは、茉由は距離を置かれ ていたからだ。 茉由は、佐藤といつも行動を一緒 にしていたので、それに気づかな かった?  いや、佐藤のことだけ見ていて、 一緒に働く他の者たちの方を茉由 は見ようとしなかった。 佐藤が、お気に入りのはずの茉由 を、あまり構わなかったのも、 実はその事に気づいていたからだ。 だが、茉由が家庭内で自分の居場 所を見つけられないとのことも、 知っていた佐藤、 茉由にこれ以上の、傷をつけたく はなかったので、そのことを、 伝えてはいなかった。 だから、このまま、自分が担当し ないタワーマンションに茉由を行 かせたら、 そこからは守ってやれないことも 分かっていた。 なので、皆から離し、茉由だけは、 違うマンションギャラリーに入れ ることにしたかったのだ。 けれど、そんなことまでは、エリ アマネージャーは把握していなか ったらしい。 茉由をタワーマンションに入れな い理由を、茉由のことを庇うが為 に、説明できないままの佐藤と、 このことで衝突してしまった。 結果、このことは思いのほか大ご とになり、エリアマネージャーに 逆らった佐藤は、ここでも成果を 出し、営業成績はトップクラスな のだから、次は、もっと大きな案 件で、華々しく活躍できるはずだ ったが、 都心からかなり離れた残物件、そ れは、建物完成後も完売できてい ない、棟内モデルルームに行かさ れることになった。 そして、その、もめた原因を聴か されなくても、いくら鈍い茉由で も、優秀な佐藤が失速する理由が、 他にないことも察しが付き、 この佐藤の処分には、自分が関係 していることぐらいは分かる。そ れもきっと、自分の方が佐藤より も、本当はずっと、非が大きいこ とも。 茉由だけは、それほど、 社会人として幼過ぎた。 この朝礼後、佐藤は、何事もなか ったかのように茉由に話しかけて きた。 「茉由、今度入るマンションギャ ラリーのチーフの云うこと、 ちゃんと聴けヨ」 それは茉由の知らない、こんな時 にも冷静な、穏やかな優しい声だ った。 茉由は顔を伏せたままで、その声 だけを聴いていた。どんな表情を 作ったら良いのか、分からない。 「でも、私、翔太が大好きだった だけなのに」  ― 本当に、茉由は、自分の行ないを 責めた。そして、自分の後悔と共 に、佐藤のことを心配していた。 けれど、再び、同期に助かられる。 頼もしい、同期の駿は、茉由のた めに、「同期会」をセッティングし てくれた。 1年ほど前… 茉由の同期の、咲と、梨沙、駿と 翔太が集まれた。 ―  皆の第一声は挨拶抜きだった。 何年も、揃って会ってはいな くても、同期なんて、 こんなものかー。 「オシ! 俺、先に言っとくけど、  お前ら? 俺に気を遣うなよ、  気持ち悪いからな! ナンか、  俺から言うのもサー、だけど、  急に、駿から皆で集まるなんて  聞かされたからサー 」 「やっぱ、  皆が気になるのは、俺と茉由の  事かって思うんだけど、正直、  何年前ダァ? だろ、俺、ゼ  ンゼン平気だからサー、止めて   くれよ、頼むから」 「お前ら、たぶん、  茉由にだけ、ナンかしたのかも  知れないけど、俺サー、その前  から、バロンとは仲悪くって、  あれより前からサー、結構、  仕事の邪魔、されてたんだぜ」 「例えば、モデルで俺が接客中  なのに、バロンから呼び出さ  れて、話しの途中で、流れ、  変えられたりサー、ブースで  接客中でも、バロンから電話  に出ろって言われたり、アイ  ツサァー、前から  俺の事、気に食わなかったん          だ、きっと」 「あー、バロンが? 俺、ヤツが  ヤバイの、知ってるけど、まさ  かそこまで? 知らなかったー、       最低なクソ野郎!」 「そうさ!   アイツ、意外に陰険、だぜ!」 「あー、咲と梨沙は分かるか?  営業には、外ヅラだけは良い、  エリアマネージャーも居るんだ。  俺も、知ってたー、バロンの裏  の顔、確かに、ヤツなら翔太の  こと、落とそうと、したのかも」 「俺らからみて、バロンは、4つ  上だろ? チョット、焦ってた  んじゃね? 翔太勢いあったし、  抜かされるんじゃ、ってー」 「そうなの? 私と咲は、ソイツ  の事知らないけど、こっちには、  そんな伝わり方、してないしね」 「そうね、梨沙と、このことでは  話したことないけどね、タダ、  私は同僚から、翔太が上司に逆  らったから飛ばされたって、聴  いてた、女絡みでね。あれ?   ゴメン、違うよ! 茉由、気に         しないでよ!」 「うんー」 梨沙は、咲の失言をカバーするた めに、スルっと茉由の後ろに廻る。 茉由が確り立っていられるように、 茉由の背中にピタッと張り付き、 両腕を肩に掛け抱き着いた。 茉由には、梨沙の暖かさが伝わっ てきた。咲は、ホッとした。佐藤 はそれを目で追い、茉由の表情を 確かめた。 「そうだナァー、俺、バロンと同  じフィールドに居たくなくって、  これで離れられれば、そっちの  方が良いかもって、チョット、     面倒くさく、なってて」 「でもサー、俺、落ちたと思っ  てないんだぜ、たぶん、来期エ  リアマネージャーになるんだ、       俺、内示有ったし」 「ホント~? 翔太? ホント?」 茉由は今日、初めて大声を出した。 佐々木に云われてこの場に居るが、 この場はかなり辛かった。 聴こえるはずもない呼吸をするの にも、皆を邪魔しない様に気を遣 っていた。それほど、 ここでの疎外感もあった。だから、 佐藤の云ったことが本当かどうか、 一番気になったのは茉由だろう。 ― 1年前の、あの同期会は本当に 茉由にとっては救いの場だった。 いまでも、 忘れられない大切な思い出。 ところが、 佐藤は着任の挨拶が終わると、 やけに茉由にベタツク。 これは、 茉由には意外だった。 佐藤はそんな男ではなかったのに、 如何したのだろう。 茉由の佐藤の印象は、優しくって、 頼もしくって、賢くて、スポーツ マンらしく、正統派。 なのに、エリアマネージャーにな ったら、変わった? この会社の、男たちと同じように、 男優位の、男目線の、ただの「男」 なの? 私の事を、「女」として見るの? 茉由には、不可思議で、理解でき ない。 「茉由、逢いたかった!これから  は、同じ職場だナ、この、人事  異動も、ん、悪くはないナァ」 「俺、GMから言われた時、  真っ先に、  おまえの顔が浮かんだんだ!」 「これから、お前のこと、俺がち  ゃんと守るから安心しろ!」 いきなりの、告白?そして、佐藤 は極端な行動をとる。 茉由に向ける顔と、高井に向ける 佐藤の顔は違う。表情が険しい。 「リーダー?  ありがとうございました、  でも、俺が来たので、  もう、  大丈夫です。茉由は、     俺が守れますから」 「あ~?」 高井は呆れた。いきなり、随分な 挨拶だ。いくら、GMの後輩でも、 これでは… 佐藤はコレも、考えがあってのこ とだった。 佐藤は、今まで、茉由の事を、 離れてからも見守っていた。 茉由の事を好きだった。 茉由が、佐藤に恋愛感情を抱いた あの6年前、佐藤も、いや、それ よりも前から、茉由に恋愛感情を 持っていた。 でも、茉由は既婚者、子供も2人 いるのも知っている。 佐藤は決して、自分の気持ちを表 に出さなかった。 誰の前でも、同期の前でも。あの、 同期会でも、けっして、茉由に特 別なことをしていない。 流れを観て、茉由を庇う事しかし ていない。 自分の、男としての、茉由への特 別な感情を、気持ち、を、茉由に も同期たちの誰にも悟られないよ うにした。でも、 ここへは、GMの命令で、高井の 様子を探り、報告するようにとの 使命を持って来たが、 かなり営業の中でも目立ってきて いた、茉由と高井のことも知って いる佐藤としては、 この二人の関係も、絶対に認める わけにはいかない。 自分は、茉由を想い続けて、独身 のままなのに、高井は、茉由にチ ョッカイを出しつづけ、さらに、 茉由を振り回しながら、 それでも、 亜弥と結婚したのも気に入らない。 佐藤は、かなり、高井に対して、 覚悟があって、ここへ来た。 佐藤は優秀な男。 そうなれば、ここで、 どの様に、動く? 佐藤は、全く「悪」が無く、 イイ男で、正統派、 茉由と同期でも、少し大人な、 院卒なので、茉由よりも2つ上。 そして、今は、同期会の時に宣言 したとおりに、エリアマネージャ ーになっている。 高井のすぐそこ、 あと一つで、高井と同じposition。 そして、あの、GMの後輩。 高井は既婚者だが、佐藤は、独身。 これは、高井にとっては、「目の 上のタンコブ」かなり、厄介な男 が来たことになる。 「そうか……」 高井もようやく、目が覚めてきた。 茉由以外の事でも、 この二人は共に、営業担当。 二人は、茉由を挿み、ライバルに なってしまった。 「おい! 茉由? その名札は?」 「エッ? これは... 」 「おまえ、離婚したのか?」 「 イエ... 」 茉由は困惑顔で、微かに、 首を、横に振る。 「 でも... 」 この名札は、高井が、 茉由に渡した、 茉由の旧姓が 刻まれた名札。 茉由が、マゴマゴしだすと、すか さず佐藤は再び、高井に咬みつく、 「リーダーが渡したんですか?」 佐藤のにらみは厳しい、 「 あ~ 」 高井が一瞬返答に困る。 すると佐藤の方が早かった。 「悪ふざけ止めてくれます!」 「ガキじゃあるまいし!」 「茉由!すぐに外せ!」 いきなりの佐藤の剣幕に、茉由が シュンとなると、 それでも、 佐藤は容赦なく、自分の手で、 茉由の名札を外し、取り上げた。 高井は呆然としている。佐藤の方 が動きが早い。 それは、鷹が、獲物を見つけて、 急旋回するように、 かなりの、速さ、 佐藤は、外した名札を確り握りし めた。 「リーダー、これは、  本社の総務に、  連絡済みですか?」 佐藤の凄味は強いまま、高井に向 かう。高井を、全否定? 「 イヤ... 」 高井は、そう答えるしかない。 「では、これは、俺が預かります」 佐藤は、一瞬で、片づける。 こんなこと、 そう、 これは事実じゃない。 高井は、本社に、正式に、 茉由の氏名の変更を、 業務報告として、 総務に連絡できるはずがない。 そして、 ここのスタッフたちも、 他の者は言えなくても、 こんなこと、 佐藤は高井に、意見できる、 佐藤は凄んだまま、 高井との話しを終わらせた。 高井が、どれほど、この、 これを茉由に渡したかったのかを、 それも、佐藤は、 一瞬、観ただけで、 分かった。だから、 許さない。 『わざわざ、これを、業者に、  発注して作らせたのかー』と、 茉由の方へ振り返った佐藤は、 明らかに口調を優しく変える。 「茉由?すぐに、新しい名札を用  意するから、安心しろ、大丈夫           だからナ!」 茉由は、高井の方を見れない。 その場で、俯いた。 佐藤は、随分強くなった。同期会 からの間に、この男に、何があっ たのだろう、 佐藤は、GMの後ろ盾を、 最大限に利用する。 ここでは、 佐藤に怖いものはない。 茉由に真っ直ぐに向かう。 茉由と離れていても、ドンドン 茉由への気持ちが 強くなっていたのだろうか、 さすがの高井も、こんな展開は、 予想していなかった。 これでは、全くの、修羅場… 佐藤はそれでも、まだ、仕切る。 「茉由? 仕事に戻りなさい」 「はい...」 茉由は従うしかなかった。 高井は、黙って、この場を離れる。 佐藤は、何事もなく、漸く、自分 の荷物を、ここへ、運び入れた。 佐藤は茉由にも分かりやすく、 チャンとやってみた、 佐藤の初日は、初陣を飾れた。 それからは、 一匹の凄味のある 狼の、高井と、 GMが可愛がっている 鷹狩の、その、 鋭い目を持つ、 鷹の、佐藤が、 この狭い事務所で、 お互いに、 けん制している。 ここでのスタッフ達には、職場の 空気が、張り詰めた、毎日に変わ った。 佐藤は、口数が少なかった。 黙々と、自分の仕事をしている。 この、 佐藤と高井の仕事の絡み方は、 茉由には分からない。 高井も、無言のまま、手を動かす だけだった。あれから茉由も、 事務的にしか、ここで動かない。 高井と、茉由と、佐藤のデスクは、 茉由を真ん中に、挿んで並んでい る。 ここは、すっかり、静かな職場に 変わった。 けれど、悪役にはならない? 佐藤は、スポーツマンらしく、 正々堂々としている。 あれはあれ、これはこれ? 関西では、新参者でも、 自分たちの会社のためには、 少しでも、条件よく話を纏めたい、 ここで、どう動くか、 佐藤も、高井も、仕事人間。茉由 の事は、置いといて、この二人は 仕事に集中する。 ここでの営業は、関西では、先ず、 会社の開発部の者と、建設用地の 取得から始まり、 ここでは、新参者の、関東の営業 は、あまり役に立たないので、 こちらでの、パートナーとなる、 不動産業者を探す。 1棟目となる関西での新築マンシ ョンは、その、パートナーの不動 産会社へ、1棟丸々お願いして、 その会社から、お客様へ、販売し てもらう。 つまり、売主は、茉由たちの会社 で、販売は、関西の協力不動産会 社とのことになる。 これにより、土地勘が無く、まだ、 情報量が少なくて、営業戦略が立 てられない、新しい場所での営業 力をカバーできることになる。 ここで重要になるのは、パートナ ーとなる、こちらでの「信頼でき る」不動産会社選び、なのだが、 突然異動になった高井には、それ は、厳しいものだった。 だが、佐藤はこれに力を見せる。 佐藤は、GMの大学の後輩。そし て水球部の後輩。 大学では、法学を勉強している。 そして、同じく、GMも。 高井も茉由も、それぞれの大学で は法学を勉強している。 この様に、 不動産取引関係では、法律は大切 なアイテム。 土地の利用に関する法律では、 都市計画法 、国土利用計画法な ど、 建物の建築に関する法律では、 建築基準法、消防法、水道法、 電気関係、ガス関係、 道路関係、 町ごと、地域ごとの条例がらみ、 マンションの場合、長期優良住宅 の普及の促進に関する法律など、 不動産会社を規制する法律では、 宅地建物取引業法、 マンション 管理の適正化の推進に関する法 律など、 営業の仕事でも、販売段階での、 広告に関する法律や規制など、 宅地建物取引業法、 不動産の表 示に関する公正競争規約など、 売買や賃貸借契約などの契約 に 関するものでは、民法、 宅地建 物取引業法、借地借家法、 消費 者契約法など、 権利関係に関する法律では、 民法、区分所有法(マンション の場合)、借地借家法(賃借の場合)、 マンションの建替えの円滑化等 に 関するものなど、 不動産登記に関する法律では、 不動産登記法など、 マンション管理に関する法律は、 区分所有法、 マンションの管理 の適正化の推進に関する法律など、 住宅の瑕疵(欠陥)などに関する 法律では、民法、住宅の品質確保 の促進等に関する法律、宅地建物 取引業法、 特定住宅瑕疵担保責 任の履行の確保等に関する法な ど... これらに、 たとえば、各省の省令で、細かい ものまであったり、 国会で議決されて制定する法律や、 内閣が発する命令である政令、 施行令、 国の最高法規となる日本国憲法、 等々、 そして、契約、取引で動くお金は、 大きくなれば数千億円まで? 高額商品取引である、不動産関係 には、法律に詳しい者は多い。 だから、 不動産会社に勤める者は、法学を 勉強した者だけではないが、多い。 佐藤は、同じ大学の出身者、学生 時代に水球部だった者、そして、 法学を学んだ者、それらの中で、 こちらの地域の不動産会社に勤 める者を探し、自分との共通点を 出して、 直接本人にあたってみたり、また、 紹介してもらったりとのことを 繰り返す。 そして、その人脈から、信用でき る、パートナーを探すことができ た。 残念ながら、一匹狼の高井にはそ れが無かった。 高井は、こちらでは、建設用地取 得の仕事に廻った。地図とのにら めっこになる。そして、 土地の取得では、条件よく取得す るために、交渉術が必要になる。 高井は、人のことを視る目は鋭く、 人の心理、気持ちをを動かすこと は、佐藤よりも長けている。 高井は佐藤の上司。 エリアマネジャーの佐藤には、 こちらでの、人脈を活かした 営業を任せる。 そして、その間に、関東から来た 者に、こちらでの仕事の勉強をさ せる。 この様に、 佐藤の登場で、いい意味で、ここ の職場が、充実した、流れに変わ った。 高井も、漸く、気を入れて、 仕事をするようになった。 けれど、仕事人間ではない、 その間に座っている茉由は、 複雑だった。 茉由は鈍感だから、佐藤がGMの 使命を受けて、ここに来たことは 気づかない。 ただ、佐藤の気持ちが、男として、 自分に向かっているのだけは分か ってきた。 そうならば、高井とのことは、 佐藤は、このままにしておくのだ ろうか、 仕事のことよりも、そちらの事ば かりが茉由を悩ませる。 初日に、あんなに、手厳しかった 佐藤に、茉由は、どう接したらよ いのだろう。この、 佐藤の茉由に向かう気持ち、これ は、佐々木や、咲や、梨沙もきっ と気づかなかったはず、 茉由と同じように、 佐藤は、今まで、全く、そんな、 そぶりも見せなかったのだから、 なんだか、茉由は、 せっかく、あんなに打ち解けてい た、同期たちは、この佐藤の複雑 な心持が分からなかったことで、 もう、一つに、纏まらなくなった のではないかと、 そんな事も、茉由は心配になって いる。 「ねぇ?翔太?いえ、佐藤エリマ  ネ?どうして、関西の仕事、  引受けたの?あっ、ですか?」 茉由は唐突に佐藤に尋ねた。 佐藤は、爽やかな笑顔を、変わら ず茉由には見せる。 「茉由が、ここに居るからだヨ」 「エッ? なんで?」 茉由には、佐藤が本気かどうか、 まだ分からない。 「いつから?   そんなこと思っていたの?」 上手な尋ね方も分からないまま、 茉由は佐藤に聞いてみた、 いま、高井は外に出掛けている。 事務所には、 茉由と佐藤だけだった。 高井がいない時にしか、 こんなこと、翔太に聞けない。 「そんな事って?   そんな言い方するナヨ」 「茉由、おまえは、  結婚してるだろ?子供がいる  んだろ?如何したんだ?なぜ、  こんなになった?リーダーの         せいか?全部」 佐藤が「少し」怖くなってきた。 佐藤の気持ちを聴きたいのに、 茉由の事になってきた。 「ン、ゥゥン...」 茉由は、答えられない。 責められていると感じた。 「フッ、」 佐藤は、口元だけが動く 表情は、「 少し怖い 」 「茉由?俺は、ずっと、  おまえが 好きだった、   言わなかっただけだ」 「それに、茉由に離婚しろ、  なんて、俺は云わない。  俺はリーダーとは違う」 「分かるか?人を愛するのには、  その、愛し方は、色々あるんだ」 「でも、俺は、  茉由のことを、  本気で想っている」 佐藤は、真剣な面持ちで、茉由に 語り続ける。 「俺は、本気で想う人を、  その人に、  俺のことで、  辛い思いもさせたくはない。  だから、茉由は、  茉由のままで良いんだ、   そのままで!」 茉由には、分からない。 佐藤の気持ちは分かるけれど、 「何もしない」のが、分からない。 高井も、夫も、茉由に対して、 さんざん、自分のことを分からせ るために、 茉由に対しても、周りの人に対し ても、「事」を起こしてきたのに、 佐藤は、本当に、「何もしないの?」 それが分からない。 佐藤は、茉由の困惑した顔に気づ くと、そうなることも、そんなこ とも分かっているのか、チャンと 付け加える。 「俺は、直接、茉由に何もしない  けれど、おまえの事は守るよ」 佐藤は、茉由に優しい。 こんな場面でも、茉由に触れるこ ともない、手を出さない。 茉由は、優しい言葉だけかけてく る、心地よい、この佐藤の雰囲気 に、少し驚く、 こんなこと、 夫や高井の時に無かったから... 翔太は、ゼンゼン、違う。 でも、 茉由は、自分から尋ねたものの、 この話を如何、終わらせたらよい のか分からず、 急に、バタバタと、思い出したよ うに手を動かし、もう、黙って仕 事に戻った。そしてコピー室へと、 向かっていった。 佐藤は、そんな茉由をしばらく 眺めていたが、茉由が、 少し、混乱した様子なので、 これ以上、構うことはせず、 何事もなかったかのようにデスク に留まり仕事に手を付けた。 逃げ出した、 茉由は、コピー室で一人、手を動 かしながら、想いだしていた。 佐藤は、最初から優しかった? 茉由が、二人の子の母となった時 に、いったん、会社を離れると決 めた時、あの時も、同期の前でも、 ―「私たち、マダマダじゃない、 自分の立位置を固めるまでは、 辞めなければ善いのにぃ!」  同期のマニッシュな咲は、自分の 働き方をハッキリと決めている シッカリ者で、女性がその弱さを 見せると、少し機嫌が悪くなる。 「えぇ~、茉由ったら、仕事、   辞めるのぉ~」 ガーリーな梨沙は、表面上には、 驚いたように見せた。 「あー、そうかぁ、茉由は、二人  の子を持つお母さん、だったな」 駿はブッキラ棒に、まるで、茉由 のことを全て理解しているかの ように言ってみる。 「まぁ~、ナァ~、今辞めないと  サー、役が付いたら、この会社  は、家庭の事情じゃあ、休むの  だって、休みにくくなるからナ  ァ~、このタイミングは、アリ  かなって気もするけれどサァ」              ―  この時も、佐藤は、悟ったように 口をはさむ。それは、茉由を擁護 するように、そして、茉由を批判 する、同期の者に対しても言って いるように聞こえる。 佐藤は、優しく、茉由を守ってい る。 だから、 茉由が再び仕事に戻り、 接客担当として働きだした時も、 チーフになっていた佐藤は、真っ 先に、茉由を、自分の元に就かせ る。 ― 「佐藤チーフって翔太だったの?」 「おい、敬語は? 俺はチーフだからサー」 このマンションギャラリーの人事 権がある、チーフが決めたスタッ フなのに、お互いがとぼけている のか、茉由だけが鈍感なのかー、              ― 茉由は佐藤の優しさを、ここでも、 気づかないし、この時の職場で、 茉由がちゃんとできなくても、 佐藤は、茉由に無理をさせない。 ― 最後の朝礼の後、佐藤は今後   の皆の行先の説明を始めた。 営業担当の行先を告げた後、茉由 たち接客担当の行先が告げられ始 めた、他の3人の女性たちは、こ れから立ち上げの、かなり大きな タワーマンションに行くらしい。 だが、茉由だけは、同じ路線で二 つ先の、低層の億ションへ入るこ とになった。 この、佐藤の頑なな態度は、実は、 同期の茉由への、気遣いからだっ た。 タワーマンションの担当チーフは、 佐藤ではなかった。佐藤は、もう、 茉由を守ってやれない。だからそ こへ、一人になった茉由を、往か せることを、したくはなかった。              ― 佐藤はこの時だって、 ずっと茉由を守っている。 そして、ここで、茉由が落ち込み 悩み、苦しむことも分かっている 佐藤は、静かに身を引くが、ちゃ んと、時を見て、佐々木がセッテ ィングしてくれた、あの1年前の、 同期会では、 ―「オシ!俺、先に言っとく お前ら? 俺に気を遣うなよ、 気持ち悪いからな! ナンか、 俺から言うのもサー、だけど、 急に、駿から皆で集まるなんて 聞かされたからサー」 「やっぱ、  皆が気になるのは、俺と茉由の  事かって思うんだけど、正直、  何年前ダァ? だろ、俺、ゼ  ンゼン平気だからサー、    止めてくれよ、頼むから」 「茉由? 大丈夫か? 悪い!  ヤッパ、俺、一寸、言っとく!  あのサー、皆、俺に同情してる、  って、思うんだけど、それ、  止めてくれる? あのサー、俺、  あの時だって、茉由のセイで飛  ばされたって、思ってないし」 佐藤は、茉由の表情を確かめた。 「そうだナァー、俺、バロンと同  じフィールドに居たくなくって、  これで離れられれば、そっちの  方が良いかもって、チョット、   面倒くさく、なってて」 「でもサー、俺、落ちたと思って  ないんだぜ、たぶん、来期、  エリアマネージャーになるんだ、   俺、内示有ったし」 「ホント~? 翔太? ホント?」   茉由は今日、初めて大声を出した。 佐々木に云われてこの場に居るが、 この場はかなり辛かった。 聴こえるはずもない呼吸をするの にも、皆を邪魔しない様に気を遣 っていた。 それほど、ここでの疎外感もあっ た。 だから、佐藤の云ったことが本当 かどうか、一番気になったのは茉 由だろう。 「だ・か・ら・サー、ヤめろヨ、  お前、あの時、一緒に芝居して  いたダケだろ?まさかお前?  俺? 本気で好きだったのかヨ?    ヤめろヨ 気持ちわる!」 「ウソ! 違うわよ!」 「ナラ、オ・ワ・リ!」 「うん…」        ― 茉由は、 自分のデスクに戻り、手を動かし ながら、まだ、頭の中では、グル グルと、記憶をたどる。 佐藤は黙って仕事をしている。 こんな時でも、ここでも、 茉由に対し、佐藤は、自分の気持 ちを押し付けない。でも、 そのまま、傍にいて、 やはり、ちゃんと、佐藤は、 茉由を守っている。 佐藤は公言通り、 エリアマネジャーになって、 茉由の前に現れた。 茉由が、佐藤に恋愛感情を持つ、 ずっと前から、佐藤は、 茉由を守っている。 茉由を好きだと云った、 佐藤は、本気だ。 茉由もこれまでの 佐藤と自分を振り返ったことで、 漸く、 一度だけじゃない、 あの時も、あの時も、あの時もと、 佐藤が茉由にずっと向けつづけた 思いに、やっと、気づいた。 事務所で、隣り、同士、に、 黙って並ぶ、茉由と、佐藤。 茉由は、佐藤の方だけ、 身体が右半分、熱くなる。 茉由は分かりやすい、 横に座っている茉由は、 自分のことを拒んではいない。 佐藤は満足そうに仕事を続けた。 佐藤は茉由の事を分かっている。 茉由は「怖い」と動きが止まる。 茉由に怖い顔を向けなくても、 怖いことを起こせば、止まる。 佐藤は、茉由に怖い顔を向けないから、 茉由は、佐藤からは、逃げない。 茉由には、優しい顔で、話しかける。 母としても頑張る、 けなげな、茉由は、愛おしい。 俺は、もう、茉由を、守れる、 でも、高井は、また ......
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