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事務所は、煙と煙草の匂いで充満していた。
古賀は顔を顰め、ソファで寝煙草をしている自分の上司の頭を容赦無く引っぱたいた。
「ここ禁煙じゃないんすか」
「上司の頭叩くなんざ良い度胸してんじゃねぇの」
古賀の上司、中神は紫煙を古賀に吹き掛ける。
煙草を吸っていない古賀からすると、その煙は害悪でしか無い。反射的に吸い込んだ煙に噎せながら、沁みる目を必死に擦り中神を睨み付けた。
「せめて椅子に座って煙草吸って下さいよ、火事になったらどうするんすか。…またこんな吸って。早死しますよ」
灰皿を取り上げ、デスクの上に移動させる。
中神は渋々と言った様子で立ち上がり、ブラインドを上げ窓を開け放った。
新鮮な夜風が、部屋の空気を浄化していく。
それでも染み付いた煙草の匂いは取れやしないのだが、少しは息がしやすくなった。
「死ぬ為に吸ってんだよ」
うんざりとしたように、中神は椅子に座り込んだ。彼は少しだけ苛ついたように、ジッポの蓋を開けたり閉めたりしている。カシャンという小気味の良い音が、事務所内に響き渡る。
「死にたいんすか?」
「お前は生きたいの?」
予想外の問い掛けに、古賀は驚いたように目を丸くした。
生きたいも何も、死ぬとか生きるとか、そんな事は考えた事が無い。生きているのが当たり前で、飯を食う為に仕事をして、人並みに結婚して、老いて、死ぬのが当たり前なんじゃないだろうか。
「いや…生きたいとか死にたいとか、考えた事無いっすよ」
「ふーん。まあ、どうでもいいけど」
お前が聞いてきたんじゃないか。
と言う言葉を呑み込みつつ、古賀は、憂いを帯びた普段の上司らしからぬ人間の横顔を見つめる。
まさか彼が死にたいなどと思っているとは思わなかった。少々乱暴なところはあるが、仕事に関して言えば尊敬できる上司だ。彼の部下でいられることを誇りに思うし、部署内でも彼の信頼は厚かった。すらりとした高身長も、女受けする成端な顔付きも、全てが古賀からしたら羨ましい要素でしか無い。
こんな完璧人間が、まさか死にたいなど。贅沢な悩みだなと思ってしまった自分自身を、最低だなと思いつつ軽く苦笑する。
「眠れねぇんだよ。だから薬飲んで、酒飲んで、朦朧としながら夢の中に入ってさ。起きたら、酷く後悔するんだ。…嗚呼、起きちまったよって。またクソみてぇな世界で一日を過ごさにゃならんのかって」
「随分病んでますね。何かあったんすか?」
「何かあった方が、随分マシなんだがね。何もねぇのに死にてぇから困ってんのさ」
だから緩やかな自殺を謀ってるわけよ、と、中神は新しい煙草に火を付ける。
深く、深く煙を吸い込んでから、椅子に仰け反り虚空を仰いだ。
「贅沢な悩みって、分かってるよ」
その言葉に、古賀はドキリとした。心の内を見透かされたようで、不意に恐ろしさと、申し訳無さを感じた。
反射的にそんな事はないと否定したが、それが本心でないことを中神は気付いていた。
彼は弱々しく、くしゃりと笑った。
「お前は素直だなぁ、古賀。どうか、そのままでいてくれよ」
「それ…どういう意味ですか」
「そのまんまの意味。あまり猜疑的になるなよ」
仕事終わったんなら、もう帰っていいぞ。
中神は片手をゆらゆらと振りながら、そう言い放った。
それが何故か今生の別れのようで。
しかし、何を自分は考え過ぎているんだか。と、意識を逸らし。
「分かりました。お先失礼します、お疲れ様でした」
「おう。気を付けてな」
事務所の扉を閉め、古賀は、言い知れぬ孤独感を覚えた。
彼はいつも、こんな孤独感に苛まれているのだろうか。何故俺は今、こんなにも心に穴が開いたように思うのだろうか。中神が妙な事を言ったからか?そうか、そうに決まっている。きっとノスタルジックな気持ちだったのだ。気分が落ち込む時は、誰にだってあるじゃないか。
後ろ髪引かれる気持ちを振り切って、古賀は帰路へと就いた。
その時はまだ、明日も当たり前のように、事務所で上司に会えるのだと信じていた。それが当たり前だと思っていた。
次の日、事務所の周りには人だかりが出来ていた。
嫌な予感が古賀を襲い、引き止める警察官を押し退けて古賀は事務所の扉を開け放った。
そこには、血の混ざった吐瀉物に塗れて無残に倒れている上司の姿があった。
デスクの上には昨日移動させた灰皿と、中神が話していた薬と酒の瓶が置いてあった。
後から聞いた話によると、中神は予め睡眠薬を過剰服用した後、デパスという向精神薬をこれまた大量に酒で流し込んだらしい。
薬がアルコールと反応し、効果が強く出てしまったようだ。フラついて床に倒れ込んだあと、そのまま何度も嘔吐した。その嘔吐物が気道に詰まり、そのまま亡くなったのだという。
酔っ払いやODをしてしまった人間によくある死に方だと、警察官は淡々と話した。
その後、古賀は自宅へと返された。
ひと目見ただけで自殺だと分かる現場だが、一応他殺の可能性も考慮した現場検証が成されるらしい。今日は警察官などが出入りする為、仕事が出来る状態ではない。その為業務は停止だから帰るようにと、社員全員に命令が下された。
古賀はぼんやりと、天井を眺めた。
昨夜の中神の言葉や表情が、やけに鮮明にフラッシュバックする。
彼は、死んでしまった。
でも死にたがっていた彼にとって、この終わり方は望んでいたものだったのだろうか。
分からない。今となっては、何も。
帰り道にコンビニで買った煙草とライターを取り出す。これは、中神が吸っていた銘柄だ。
不慣れな手付きで煙草に火を付け、おそるおそる吸い込んだ。その瞬間喉が焼け付き、酷い苦味と共に噎せて咳き込んだ。
「なんだよこれ…身体に悪そうだなぁ」
古賀は、煙草を見つめ、少しだけ笑った。
「緩やかな自殺、か」
そしてまた一口吸っては咳き込んだ。
それを何度か繰り返し、煙草が短く灰になる頃に、ようやくまともに肺まで煙を吸い込めた。
こんなもので中神の気持ちが分かるはずもないし、結局死にたいとも生きたいとも思えない。
古賀は煙草を消し、まだ何本も残っている煙草の箱をゴミ箱へと投げ入れた。
「…あんたは馬鹿っすよ、中神さん」
呟いた言葉は、部屋に漂う紫煙と共に霧散した。
そのまま古賀はベッドに倒れ込んだ。
その時ばかりは、「どうかすぐに目が覚めることが無いように」と、自分らしくもない事を思いながら、古賀は眠りに就いた。
『嗚呼、起きちまったよって。またクソみてぇな世界で一日を過ごさにゃならんのかって』
そんな中神の言葉が、まるで遺言のように鼓膜に張り付いたまま。
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