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「ねぇ、葵ちゃん、さっきのひょっとして、牧野さん?」
葵の隣にやって来た女子学生が尋ねる。同じテニスサークルの友人だ。
「うん、そうだよ」
「あの事件の……?」
興味津々といった様子の友人に葵は微かに眉を顰める。
(そりゃあみんな知ってるよね)
もう半年程前になる。美咲と葵の住む小さな町で大事件が起きた。事件を起こしたのは当時三十三歳の男。無職でほとんど家に引き籠っていたという。その彼がたまたま見かけた女性に恋をした。彼はこう思ったという。彼女こそ俺の運命の相手なんだ、と。俺を待っているに違いない、今すぐ迎えにいくから待っていてくれ、と。典型的なストーカーだ。男は女を付け回した。女は男に付け回されていることに全く気付いていなかったらしい。そして事件は突然起きた。男は女が自分の好意に気付かないのは親が反対しているせいだと思い込み両親を刺殺。帰宅した彼女を血まみれの手で抱き締めた。
「さぁもうこれで邪魔する人はいないよ」
全く面識のない男性に血塗れの手で抱き竦められしばし茫然としていた女性はむせかえるような血の臭いに我に返る。そして事態を把握した。両親はこの男に殺されたのだ、と。その時の様子をたまたま見ていた人がいる。開け放された扉の向こうで一組の男女が抱き合っている。でもどこか様子が変だ、そう思って見ていると女性が突然叫んだ。叫ぶというより吠える、といった感じだったらしい。そして気が狂ったように暴れ出すと男の腕から逃げ出した。目撃者が慌てて警察に連絡し女性を宥めにかかるが女性は吠え続けた。
「なんで、なんでだよ、あれは誰だ、あれは俺のお姫様じゃない、あれじゃまるで……まるで……」
目撃者によると男は警察が急行して連れ去られるまでずっとその場に立ち尽くし何やら呟いていたという。
「あれじゃまるで……ケダモノだ。あの女はケダモノだったんだ……」
残忍な犯行、そして全く反省の色もなく自分こそが騙された被害者だ、あの女は人間の皮を被ったケダモノだったのだという身勝手な主張。男に対する世間の非難は凄まじかった。そしてその非難の声は男の家族にも向けられることになる。両親を殺害された被害者の名は井上薫、牧野美咲の高校時代の同級生。そして加害者の名は牧野雄一、美咲の兄だった。
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