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「じゃあ、お名前と連絡先を教えてもらっていいですか」
メモを持った青年に促され、史人は顔を上げた。
「あ、設楽です。設営の設に楽しいで、しだら。電話番号は——」
「はい。設楽様ですね。あ、一応メアドも貰っていいですか?」
「えーと、f、u、ドット、s、h、i、d、a、r、a@———」
「fu.shidara、ふ、ドット、しだら……」
復唱しながらペンを走らせる青年の手が、ふと止まった。
やはり、このメールアドレスが引っかかったのだろうか。
史人は途端に恥ずかしくなり、カードケースから名刺を1枚取り出してカウンターに置いた。
最初から、こうしていればよかったのだ。
「下の名前が史人なんです。だからこんなメアドで……。あ、ここに会社名も書いてあるんで、領収書もお願いできますか」
「は、はい。もちろん」
青年は名刺を手に取ってしばし眺めた後、ふたたび笑みを浮かべた。
——いらぬ説明だったかもしれない。
名前のイニシャルに名字をつなげたメールアドレスは、仕事でやりとりを交わす時の、小さな障壁になっていた。
園部はそれを事あるごとにネタにし、史人を「ふしだら」と言ってからかった。
それどころか、取引先などで話を盛り上げるためのネタにされるときだってある。
こいつのメアド、おかしいっすよね。本人、こんなガリでヒョロの眼鏡なのに、ふしだらっすよ! ふしだら!——
大抵、笑っているのは園部ひとりだけで、ますます気まずくなるのだった。
本当に空気が読めない奴だ。
ま、バカ部だから仕方ないが————
「史人さんっていうんですね。俺も、海人って言うんです。海の人で、かいと」
突然、青年が史人のぼんやりとした思考を切り裂くようにして言った。
「え?」
「あだ名はうみんちゅです。海嫌いなのに、うみんちゅ。よく友達に笑われるんです」
「そ、そう……」
「あ、すみません。どーでもいいですね。ただ、名前がちょっと似てるんで、なんか親近感わいて」
そんなに似ているだろうかと思いつつも、人懐っこい笑みで言われて、史人も悪い気がしなかった。
会話を広げるつもりなどなかったのに、ついつられて口を開いてしまった。
「俺もこのメールアドレスのせいで、会社でふしだら君って言われてるよ」
「えっ、そうなんすか。すごい真面目な感じなのに……」
「そうでも、ないんだけどね」
史人は、海人の手元に視線を移し、領収書に書かれた社名をゆっくりとなぞった。
意外にも綺麗な字だった。
「字、綺麗だね」
「そうですか。書道をずっと習ってたんで」
字が綺麗な男は、セックスも丁寧なんだろうな……。
無意識に舌舐めずりをしていると、領収書を差し出されて慌てて受け取った。
最近、とんとご無沙汰なせいか、気を抜くとこんなことばかり考えてしまう。
年下になんか、興味はないのに。
「おすすめのお弁当ってなに?」
「え、お弁当ですか。うーんと、幕の内ですかね。個人的にはチキン南蛮弁当が好きですけど」
「じゃあ、チキン南蛮もください。これの領収書はなくて大丈夫」
「はい。少しお待ちくださいね」
海人は笑って、のれんの奥に消えていった。
そのなんとなくだらしない敬語が微笑ましくて、史人もつられて口角を上げていた。
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