3 先生のこと

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3 先生のこと

その病院は北千住の駅からバスで15分ほど行ったところにある。実家のある山形ではなく東京で入院することになったのは、会社からの依頼があったからだ。精神疾患の治療は長期戦になるかもしれないが、事務所として裕太君を見捨てるつもりはない。裕太君さえ良ければたまには顔を見たいので、できれば東京で入院してもらいたい。先生から実家の父にそんな電話があったらしい。 丸井法律事務所が開所したのは10年前。主に労働問題を扱う事務所で、働く人の人権、人間らしく生きる権利を守ることを標榜している。開所10年にして、近隣の中小企業で働く労働者の不満や悩み、心配事の相談に乗るよろず相談所のような存在として高い評価を得ていた。 敷居の低い法律事務所でありたいというのが先生の口癖でもあり、法律がかかわりそうなものならどんな相談にも応じてきた。それは、生活上の問題のほとんどすべてについて相談を受け付けるということであり、お金になりそうなこともそうでないことも分け隔てなく話を聞き、相談者とともに解決の糸口を探り、相談者が納得できる成果を得るべく努力を重ねる事務所として地域の信頼を勝ち得てきた。先生は、立ち寄る商店街の店々や居酒屋など、どこでも気軽にそして親しみを込めて先生と呼ばれる存在である。 8e4e7cc6-c9c6-4594-bd69-25c1fd5a953d その事務所で所員が精神疾患に罹患し仕事を休んでいたことについて、先生はどんな思いを抱いていただろうか。少なくとも僕と僕の両親に対しては雇用主としてのあるべき姿で接してくれていたが、僕にとって、絶えることのないその微笑みはどこか冷たい能面のようで、他人に内心を悟られまいとしているかのような警戒心を感じさせるものだっだ。 そういう疑念を覚えたこと自体、あの頃の僕が病んでいた証拠なのかもしれないけれど。
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