最終章

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 父の葬式は結局でなかった。  あの日、ホテルの一室で明彦に覆いかぶさられたまま、スマートフォンがずっと鳴っていた、ずっと、ずっと。 「明兄ちゃんの言う通りや。私はずっと流されて生きてきた」  そうしないと生きられないからだったが、そうした方が楽だったからでもある。  自分の生き方を決める責任を姉に、そして明彦に丸投げしていたのだ。 「今更、生き方を変えるなんて言うなよ。いいだろうこのままで」  両手を掴まれて押さえつけられているのにまるで、縋られているよう。 『あのクソ親父も愛人に子供まで産ませるとはね、ほんと、厄介だわ』  姉の言葉が頭をよぎる。 (ああ、本当は……、本当はずっと、ずぅっと思ってた。それを認めないようにしていた) 「…………姉さんなんか、嫌いや」  ようやく絞り出した本音。  愛されたかった、姉に愛されたかった。姉だけには愛されたかった!  でもそれは叶わないと本当はわかっていた。  だけどどうしても、縋るのを止められなかった。  認めたくなかったのだ、自分はいらない子なのだと認めたくなかった。 「母さんも嫌い」  あのクズに人生捧げずに、麗をもっと見てほしかった。  もっともっと、見てほしかった、そばにいてほしかった。  愛人なんかやった上、看病もしないといけなかったし、早死なんかして、ほんっと、迷惑だった。 「あのクズも嫌い」  何が愛せなくて悪かっただ、愛人孕ませるな。孕ませたならせめて、堕ろさせればよかったのだ。母なら愛する男に指示されたら唯々諾々と堕ろしてたに決まってる。  そうしてくれればこんな肩身の狭い思いをしながら生きなくて済んだ。 「お母様だって嫌い」  巫山戯るなよ、面倒なことばかりスルーして、夫のやらかしくらい責任取れよ、大人だろ。自分だけ安全な位置にいて。 「会社の人間も皆嫌い」  どいつもこいつも麗にいい子でいることを期待して、我慢させられ続けてた。  丸山社長だって嫌いだ。人のコンプレックスをズケズケ指摘して!  ああ、そうだ、そう! 「明兄ちゃんなんか、嫌い」  麗は大きく息を吸った。 「明兄ちゃんなんか、大嫌いっ!」 「っ!」  そう言った瞬間、明彦の手の力が緩んだので、両手で強く胸を叩いた。 「優しいお兄ちゃんでいてよ! 愛してるなんか言わないでよ! 今まで通り可愛がってよ! 妹でいさせてよ! そうだよ、私はっ!」  気づけば、麗は腹の底から叫んでいた。 「私は! 他人の望むように振る舞うよ! これからもずっと。だってそうする以外生き方を知らないもん! いいよ、言うよ。明彦さんを愛してる。愛してる。愛してる。愛してるっ!」  はらはらと涙がこぼれ落ちていく。  望まれた言葉を望まれたとおりに言っているはずなのに、こんなにも苦しい。 「嘘だよ。私は誰も愛してない。ただ、寂しいから構ってほしいだけ。だから、相手の望むように振る舞うの!」  そうだ、一番のクズは父じゃない。麗だ。  感謝しているふりをして、本当は何もかもに腹をたてている麗だ。 「愛なんか信じちゃいない。母さんのような男に縋るくっだらない人生なんか送りたくもない! 大体、何が愛してるよ! 何が兄じゃないよ! 兄のように振る舞ってるのは自分でしょ! 私を甘やかして守る妹以上にしなかったのは明兄ちゃん!」  そうだ、麗は我慢していた。我慢していたのだ! 「社長の仕事、ぜーんぶやってくれてありがとう! 私の責任を全て肩代わりしてくれてありがとう! 私が立てた企画のために裏から手を回してくれてありがとう! 会社を立て直してくれてありがとう! 私の知らないところでずっと陰日向から守ってくれてありがとう! おかげて私は母さんと一緒で男に縋らないと生きられないってよくわかったよ!」 「麗、俺はそんなつもりじゃ……ただ守りたかっただけで」  ああそうだろう。親切心でやっていたのはよくよくわかっている。 「明兄ちゃんといたら惨めになる。惨めだよ、私、ずっと惨め! 王子様なんかいらないの! 私に明兄ちゃんは必要でも、明兄ちゃんに私はいらないでしょっ? それが答えだよ!」 「れいっ! いるに決まってるだろ! 俺は麗を愛してるから!」  麗はふふと、笑った。何故か笑えた。 「明兄ちゃんが愛してるのは私じゃなくて、愛人の娘で、姉に置いてかれるから寄る辺がなくて、父親に虐げられてる、可哀相な女の子だよ」 「そんな、ことは……」  明彦が目を見開いている。本人もきっと無意識だったのだろう。  明彦が麗を選んだ理由。  それはきっと、明彦が知っている中で一番可哀想な女の子が麗だったからだ。 「私は可哀相な女の子をやめる! もう可哀想でいるのはやめるの! 世の中にはもっと面倒見る価値がある可哀想な女の子はいっぱいいるから、明兄ちゃんには私じゃなくていい」 「馬鹿なことを言うな! 愛してるって言ってるだろ!」 「明兄ちゃんが愛してるのは、明兄ちゃんにとって都合がいい可哀想な私でしょ!」  それは、決定的な一言だった。 「いい加減にしろ!」  ばん、と、強い力で再び両腕を掴まれ、ベッドに押さえつけられる。  腕に食い込む、明彦の指。 「いやっ!」  でも、謝りたくなくて、麗はギンと、明彦を睨みつけた。 「っ!……もう、いい。もういい」  すると、明彦の手が離れ麗の上から退いた。 「…………これ以上、麗の言葉を聞いたら俺は何をしでかすかわからない。だから、もういい」  それだけ言うと、明彦は部屋を出ていった。  そのさまを無言で見つめ続けた麗は寝転んだままスマホを手に取った。小籠包と優しい目をした明彦の顔が写った待受が目に入るが無視して電話をとる。 『麗、まだなの? 早く来て! もう始まるわよ』 「姉さん、私、葬式には出ないから」  姉が電話の向こうで息を呑んだ気がした。 『なにを、言っているの? 麗』 「私がいなくてもさ、姉さんならうまくやれるやろ。今日も、これからもずっと」 『麗っ?』  悲鳴混じりの声。これもきっと演技なのだ。  ずっと、母のように男に縋っては生きたくないと思っていた。それなのにそう思いながらずっと、姉に縋って生きていた。 「……姉さん、愛してたよ。心から」  これはまるで失恋。  心からあなたを愛していた。だから、愛を返してほしかった。  少しでも、欠片でも、甘やかしてくれる時間が好きだった。  あなたの特別になれたような気がしたから。 『麗、あなたわたしを……、わたしを! 捨てるの? 私を捨てて明彦を選ぶつもりなのっ!? 麗! 待ちなさい! れいっ!』 「先に捨てたのは姉さんやんか。ううん、最初から私のことなんか拾ってもなかった。ほんまはずっとわかってたんやけどね」 『待って、麗、れいっ! 待って!』  美しい人。  あの日の麗の憧れ。  すべてを捧げた人。 「さようなら姉さん」  プッ、と麗は電話を切った。すぐさままたコールが来たので、今度は電源を切った。 (ああ、すっきりした……すっきりした)  麗はベッドの上で目を閉じた。  綾乃ママに会ったのは、母親の墓の前だった。 「あんた百合の……」 「麗です。お久しぶりです。子供のころはすごくお世話になりました」  明彦の家に戻りたくなくて、喪服のまま彷徨った麗は、恨み言でも言おうかと母の墓に行った。  そこにいた先客の顔は覚えていた。髪型はロングからショートに変わっているが間違いない。子供のころ散々世話になった人だったから。  皺はあるが若々しく、エクステだろうか長い睫毛と赤いネイルがよく似合っている。 「いいのよ。私には子供がいないから楽しかったわ」 「母の葬儀の日もありがとうございました」  香典返しはいらないとくれた大金は有り難く母の墓を建立する時に足しにさせてもらった。 「本当に助かりました。その上、母のお墓参りまでしてくださってたんですね。ありがとうございます」  麗は頭を下げた。 「水かけて帰るだけよ」  麗の預かり知らぬところで花や線香が供えられていれば、気づけない事のほうが多いだろう。  結果、花を枯れさせたり、線香の燃えカスでお墓を汚してしまうことになる。  だから、それもまた配慮してくれたのだろう。 「母を気にかけて下さり、ありがとうございます」 (なんで私、母さんなんかのために頭下げてるんだろう。さっき嫌いだって叫んだばかりなのに) 「たまのたまにね。近くに用事があるときとかに。今日来たのは、この前、あの男が死んだのをワイドショーで見て、百合のこと思い出したからってだけだし」  露悪的な態度を取る女性に麗は首を横に振った。 「私以外に、母を覚えている人がいてくれて嬉しいです」  口ではそう言ったが、本当に嬉しいかは自分でもわからない。 「まあね。あんなに馬鹿みたいに一人の男を愛した女、なかなか忘れられないわ。やめとけって言ったんだけどね。もっとちゃんと止めてやるべきだった」  女性は母の先輩だった。女性が母に忠告してくれていたのは麗も覚えている。  それが二人の決裂のきっかけだったから。 「すみません」 「あーー、悪かったわ。あんたの父親悪く言って」  女性が頬を掻いたので麗は微笑んだ。 「いえ、どうしようもない人でしたから」 「あんたは今、何してるの?」  話を変えようとしてくれた女性の優しさに麗は乗れなかった。  姉と縁を切って、父の葬儀に出るのを止め、無職になって、夫と離婚レベルの大喧嘩して、家出した足で母親の墓にきました。 と言ったら、自殺しないか心配されそうだ。 (ああでも、それもいいかな) 「えーーと、父の、いや、姉の会社で…………」  ゴニョゴニョの言葉を濁すと、女性は首を傾げた。 「あんた、行くところはないの?」 「そんなことは……」  ただ、もうここにはいたくないだけ。 「ないのね?」  その言葉は質問というより確認だった。  だから麗は答えられなかったのだ 「うちに来な」
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