政略奪結婚

プロローグ

「さて、麗。佐橋児童衣料が今、危機的状況なのはわかっているな」
「そりゃあねぇ。他でもないあんたのやらかしのせいですから」

　佐橋麗は初めて連れて来られた料亭の個室で父親を鼻で笑った。
　成人はとうに過ぎ、反抗期はもう脱していてもいい年齢だが、これは断じて反抗期ではない。
　ただただ、父親が嫌いなだけである。

　佐橋児童衣料は着ているだけで皆を笑顔にする服を！　というコンセプトの子供服のメーカーだ。
　麗は会ったことのない亡き祖母が立ち上げ、全国のデパートに入り、出産祝いには佐橋児童衣料の服を贈れば間違いないと言われるほどに育て上げた。
　佐橋児童衣料の商品には、胸に特徴的な猫のマークがついていることが多く、日本人ならば誰もが知っているブランドの一つである。

　しかし、祖母亡き後、ぼんくら息子の二代目が会社を継ぎ、ものの見事に倒産しかかっているというのが現状だった。

　そして何を隠そうそのぼんくら馬鹿息子こそ、今となりにいる麗の父親と呼びたくもない生物だ。
　このぼんくら息子は人としてクズな上に、経営に向いていないのだ。

　優秀すぎるほどに優秀な後継ぎである麗の姉を嫉妬からだろう、家から追い出し、あの姉が跡継ぎだからと我慢してくれていた投資家からも見放され、会社は最早風前の灯だ。

　それで、そうだ、麗を金持ちと結婚させよう！　と、京都に行く感覚で自社株とセットで売り払おうとしているというのが現状だった。

「黙れ！　誰がここまで育ててやったと思っている」
「死んだ母さんと、あんたに追い出された姉さん。因みに私がここにいてあげているのは、あんたのためじゃなくて姉さんのため」
　麗に焦りは無かったし、逃げるつもりもなかった。

　どんな相手が来たとしても父ほどのクズはなかなかいないだろうし、そもそもお相手様とやらが母方は公家の血を引いており、美人で、優秀で、格好よくて、優しくて、学歴も高くて、背も高い、何もかもが完璧な姉ではなく、母方の血筋をたどることすらできない父親そっくりの阿呆な愛人の娘で満足するとは思えない。

　なまじっか若さに惹かれたどこぞのヒヒ爺に気に入られたとしても、それならそれで粛々と結婚するだけだ。

「麗音には今回のこと、言っていないだろうな」
「お姉ちゃーん、パパに変な男のところに売られそう、助けてーって？　はっ、言うわけないやろ」

　この父親に金が行くのは気に入らないが、姉に帰る場所を残しておくため、会社の借金が少しでも減っているなら、それでいい。
　恐らく、姉が成人式に着た、継母が生家から持ってきた美しい振り袖に初めて袖を通させてもらい、麗は毅然と顔を上げていた。

（大丈夫、私なら我慢できる）

　全ては姉のため。大好きな姉のためなら麗は何だってできるのだ。

　父に家を追い出されて単身アメリカに行ってしまった、姉。
　英語どころか、色々な言語を話せるからきっと大丈夫だろうが、家事だけは苦手なのだ。

　本当は、今すぐアメリカに行って掃除と料理をしてあげたいと、思っていると、ふすまの向こうから女将が声を掛けてくる。

「失礼します」
　緊張してしまっていたのだろう、噛んでいたことに気付き、麗は唇を緩め、微笑んだ。
　そうして女将の後ろに見えたのは……。
　海外モデルと並んでも押し負けないスラリと高い背に、力強い目が印象的な美丈夫。

「アキ兄ちゃんっ⁉⁉⁉」
　思いもしなかった人の登場に、お淑やかなふりすら忘れ、麗は思わず叫んでいた。

「えーーーっと、ご、ご趣味は？」
　後はお若いお二人でと早々に二人きりにされ、庭を歩きつつ、麗は困り果てていた。
「この関係性で今聞くのか？　それを」
　須藤明彦は姉の親友だ。麗のこともいつも気に掛けてくれ、それこそ妹のように可愛がってもらってきた。
　何なら昨日も普通に連絡を取り合っていたくらいには長い付き合いなわけで、今更趣味もなにもないのは確かだ。
「……何聞いたらええかわからへんくて。あ、でもそういや、明兄ちゃんの趣味知らんかも？」
「趣味以外に大切な問題があるだろ。どうして私とお見合いしようと思ったの？　と上目遣いで可愛く聞くとか」
　その言葉に麗は口元を拳で隠して、キュルンと明彦を見上げている己の姿を想像した。

「いや、なんでやねん！」
　シー－－ーン。美しい日本庭園で鳥のさえずりと、ししおどしの音が響く。

　麗はツッコミが滑ったのを全身で感じた。
　明彦は本気だったのだ。本気で上目遣いで可愛く聞かれようとしていたのだ。

「…………いや、なんで私と、お見合いしようと思ったん？　あ、私が相手って知らんかった？　姉さんやと思ってた？　ごめん」
　あの父のことだ。ギリギリまで相手方には売りに出す商品は最高級品の姉ではなく、劣化品の麗だとは伝えていなかったのだろう。　

「レズの麗音と見合いしようと思うわけないだろ？　俺は……お前だから……」
　目をそらして口ごもった明彦に麗は指を鳴らした。
　合点がいったのだ。
「あー、そっか、断りやすいもんね！　親戚からの結婚しろ圧力が強くて、そんで一回見合いしたら文句ないだろって感じで今日来たんやろ？　アキ兄ちゃん、ええとこの御曹司やからお家とか継がなあかんし、大変やなー」

　百貨店、公共交通機関、それに不動産業などを営む関西有数の優良企業である須藤ホールディングスの御曹司である明彦は、持ち込まれる沢山のお見合いに辟易していた。
　どんな美女でも氷のような明彦の心を癒やすことはできなかったのだ。
　しかし、ある日、美しくて控えめな虐げられている令嬢がお見合いの場にやってきて、最初は塩対応するものの、その健気さにかたくなな心がほぐれていって、次第に二人は惹かれ合い……。

　麗は明彦の幸せな恋物語を妄想し、ひとり頷き、ぎゅっとガッツポーズを作った。

「諦めんとお見合いしてたらきっと虐げられた美しい令嬢との素敵な出会いもあると思うで！　頑張れ！」
「今！　その！　虐げられた令嬢と俺は見合いしているだろう！」
「ええ？　私？　出自はあれやけど姉さんのおかげでそこそこ幸せに暮らしてきた私が虐げられ令嬢名乗るなんて、虐げられ令嬢界に失礼やない？」
「まず何だ、虐げられ令嬢界って」
　明彦が眉間を揉んでいる。
「いや、知らんけど」
　知らんのかと、軽くツッコミを入れつつ明彦は言葉を続けた。
「お前は今な、まさしく虐げられた令嬢なんだ。借金の形に好きでもない男、つまり俺に売られるんだから」
「え、まじで？　私、アキ兄ちゃんのこと大好きやで？」
　麗は小首をかしげた。
　好きでもないだなんてそんなわけない。
　これまでどれほど明彦に世話になってきたことか。
「ラブじゃなくてライクだろ？」
「当たり前やん！　私ごときがそんな身の程知らずな恋するわけないわ」
　麗は全力で手を横に振った。

「全力で否定するな、実はちょっと気になってたと頬を染めろ。傷つくだろ？」
「え、ごめん。モテ男のプライドを傷つけて。でも私、アキ兄ちゃんのことほんま大好きやで」

　明彦はそりゃあモテる。ものすごーーーーくモテる。近くで見てきたのだからそれは確かで、麗一人くらいドキドキしなくても誤差の範囲内だと思うのだが、明彦はそうではないらしい。

「何位だ？」
「何が？」
「お前の中の俺の順位」
「ぇえーーー？　死者は順位に含みますか？」
　バナナはおやつに含みますか感覚での質問に、明彦がはーーーーっと深い溜め息をついた後、目を眇めた。
「含まない」
「なら世界で二番目かな。勿論一位は不動で姉さん」

　そう、麗は明彦のことがかなり好きなのだ。死んだ母の次くらいに。
「お前はいつだって、麗音(れいね)のことしか考えていないな」
「うん！」
　麗は元気に頷いた。姉は麗の生きる意味なのだ。
「あと、お母様のことも好きやで。愛人の娘と本妻っていうなさぬ仲やのに、ようしてくれはって。意外と楽しい人やねん。この前、魚の捌き方を教えてもらったわ。結局、上手くできへんかったけど。それに、姉さんが子供の頃のピアノの発表会のビデオも二人で見てん。姉さん可愛かった！　昔からすんごい美少女でなー」

　麗は明彦が昔してくれたアドバイスのお陰で、ぎくしゃくした継母と仲良くやれるようになったことを伝えたかった。
　明彦に言われた通り、姉にばかり目を向けるのではなく、周りの人間と話をして、理解しようとするようにしてから、麗の世界はぐっと広がった。
　だが、明彦はその返事が気に入らなかったのだろう。つい、と視線を送られた。　

「……お前と会話していると俺は負けたと思うことがよくある」
「完全無欠のアキ兄ちゃんが私のなにに負けるっていうの」
　明彦は姉と同じタイプの人種だ。全て持ってる。
　それなのに、何かに苛立ったように明彦がどんっと、麗の近くの松の木に手をついた。

　松ぼっくりは落ちてきていないだろうか。いや、そもそも時期が違うか。
　それに、これは所謂壁ドンというやつではないだろうか。いや、松の木だから松木ドン、いや、ドン松木かと似た名前のファッションデザイナーを思い出していると名前を呼ばれた。

「麗」
「あ、はい」
　混乱し霧散していた思考を戻される。
　明彦の秀麗な顔が、近い。
　明彦がこんなに近かったことなどこれまであったろうか。

「お前にはその、身の程知らず、とやらの恋をしてもらう」
　麗はその言葉にコテンと小首をかしげた。　
「なんで？」
　明彦が眉間にシワを寄せた。
「まずは自分で考えろといつも言っているだろ。兎に角、今日の見合いは形だけ。麗は俺と結婚するんだ」
「へ……」
「その狭すぎる眼中に俺を入れさせるから覚悟しろ」
「え、ぇえええええ！」