最終章

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 麗は一人で開店準備をしながら欠伸を噛み殺した。  限界まで挑戦したことがなかったので知らなかったが、麗はウワバミというやつらしい。  麗がお酒の杯を開ける度、お客さん、特におじさん達が手を叩いて喜ぶ。  だからついつい飲み過ぎるのだが、仕事が終わると目が冴えてしまう。  そのせいで、昨夜遅くまで資格の勉強をしてしまった。  だが、綾乃ママから短期間しか雇わないからそのつもりでいなさいと言われていたからだ。  綾乃ママが紹介してくれたマンスリーアパートは家具家電付きで父の遺産で家賃が払えた。  本当はしばらく働かなくても生活は持つが、いつかはなくなる。  だから、麗はお客さんの一人が強く勧めてくれた資格の勉強をしている。  どうやら、ママは過去にも何度か行き場所のない女のコを拾ったことがあったらしく、お客さんも今更進路で悩む麗の対応に慣れた様子だった。  手を動かしていると、ドアベルの音がした。 「すみません、まだ準備ちゅ……う」 (……あき、兄ちゃん?)  逆光で扉の先にいる人が見えなかった。 「よっ!」 「……あ、森田さん!こんばんは」  森田が片手を上げて立っていた。気づいていなかったがドアの向こう側は雨だ。  通り雨だろう。 (ママは傘を持っていっただろうか、心配だな) 「雨に降られてね、開店前なのはわかっているけど入ってもいい?」 「勿論です。準備で五月蝿いと思いますけど許してくださいね」  森田はすっかり常連だし、ママも怒らないだろう。麗はタオルを棚から出した。 「どうぞ」 「ありがとう」  タオルを渡すと森田が服を拭き始めたのでお茶を淹れ、おしぼりを出す。 「粗茶ですけど」 「ありがとう。美人が淹れてくれるものは何でも美味しいよ」 「またまたもー」  森田がカウンターのいつもの席に座り、お茶を啜った。 「ところでママは?」  森田が見回すように首を振った。 「ネギを買い忘れてたらしくて、買い出しに行かはりました。多分すぐ戻ってくるかと」  居酒屋として食事する人も多い店なので、ネギがないと始まらないのだ。麗が買いに行くと言ったが、開店作業に飽きたから行って来るとママ自ら行ってしまったのだった。 「そっか。じゃあ、ママが帰ってきたら始めようかな。だから、ボクのことは気にせず準備してね」 「了解です」  とはいえ、開店準備はほぼほぼ終わっていた。後はグラスを拭くだけだったので、麗は森田と話しながら拭くことにした。 「今日はお仕事お休みですか?」 「うん、元嫁とね、息子に養育費払うために会ってきたんだ。そういう約束でね。月一回だけ会えるんだ」  麗が返事に窮すると、森田は笑った。 「仕事ばっかりして家庭を顧みてこなかったからだろうね、ある日離婚届だけ残してドロン、だよ」 「……森田さんはお子さんのこと、ちゃんと愛してるんですね」 「とはいえ、当たり前に養育費を払ってるだけで後のことは嫁さんに丸投げしてるから息子は愛情を感じてくれているかわからない、と言いたいところだけど、うららちゃんにとっては養育費だけでもそう感じるのかな?」  麗は余計なことを言ってしまったなと思った。 「すみません。私、あんまりいい育ちではなくて。父は払ってくれないタイプの人だったので」  言葉を濁すと森田は眉を下げた。 「そっか。嫁さん、いや元嫁さんね、うららちゃんにちょっと似てるんだよね」 「光栄です」  麗が微笑むと、柏木さんが付け足した。 「ドシなところがね」 「もー」 「だから、ボクうららちゃんには幸せになってほしいんだ。嫁さんのこと、幸せにしてやれなかったから」 「今の生活に満足してますよ」  麗には充分過ぎる環境だった。  客の望んだ言葉を望んたとおりに言うことは前とは変わらない。  常時抱き続けていた劣等感から開放され、ずっと楽になった。 「正直に言うとね、麗ちゃんは時々凄く寂しそうにみえる。ボクが扉を開けた時、誰を待っていたの?」 「誰も待ってませんよ。私はもう誰のことも待ちません」  麗はいつも待つばかりの人生だ。  ずっとずっと、待ってきた。  訪ねてこない父を待ち、夜の街で働く母を待ち、帰ってこない姉を待ち、仕事に邁進する明彦を待つ。  そんな人生からもうおさらばしたのだ。 「じゃあ捕まえに行くの?」 「えっ?」  思ってもいなかった言葉に麗は目を丸くした。 「だって待たないなら、君がいかなきゃ」 「考えたこともなかった、です」 「よかったら話してみて、誰を待っていたのか。そして、これからどうしたいのか。話してみると意外とまとまるものだよ。でも、嫌なら、そうだな……、和歌山の動物園でパンダが誕生日を迎えたらしいからその話をしよう」  店が開く前だから君と僕は今は友達だよと、森田がウインクしてきた。 「……兄のままでいてほしかったんです」  つるりと言葉が滑り落ちた。  森田がギョッとした顔をしたので、近親相姦だと思われたと、麗は慌てて手を横に振った。 「違います、違います。お兄ちゃんみたいな存在の人だったんです」 「ああ、なるほど」 「でも、恋愛をしなきゃいけなくなって」  麗との結婚も恋愛も明彦が決めたことだった。  でも麗は明彦と恋愛をしたくなかった。 「不思議なことを言うね。恋愛は義務じゃないと思うけれど」 「私は助けて貰う立場だったから、いつだって下の立場の人間だから」  明彦は守ってくれた。でも、麗が明彦を守ろうとすることは許してくれなかった。  明彦にとって麗は対等な相手ではないから。  姉のように優秀ならばまた違ったのだろうか。  いつだって麗は頼りきりだった。 「相手をどうしても好きになれなかった?」 「いいえ、むしろ、大好きです」  そうだ、好きだ。惨めにはなるけれど確かに好きなのだ。  子供のころ、ぼろアパートに住んでいるくせに着ていたサハシの服と同じ、大好きだ。  でも、身分不相応。 「恋じゃなかった?」 「…………恋はしていたと思います」  んん? と森田が首を傾げた。  きっと、恋はしていた。  好きだったに決まっている。  いつからだろうか。  結婚したから? そうではない。  ずっとそばにいてくれたから、それに姉が一番だったから、気づいてなかっただけ。  多分、ずっと、好きだったのだ。  でも、釣り合わないのもわかっていた。  だから兄でいてほしかった。  兄ならば、離れなくてすむから。兄ならば、彼が誰と恋に落ちようが、気にしなくてすむから。兄ならば、麗がどれほど劣った存在でも関係ないから。  姉の代わりにそばにいてくれる人。  姉よりずっとずっとそばにいてくれた人。  姉よりも好きになってほしいと言われた。  それは麗を根底から覆す言葉。  麗が姉にいいように利用されているだけだと目を逸らしていた真実を突きつけてきた。  きっと姉にしていたように明彦に依存するのは簡単だ。  都合のいい子でいれば明彦は姉のように蔑ろにしてはこない。  大切に、大切にしてもらえただろう。  でも、それは明彦の幸せなのだろうか。  それが明彦の本当の望みなのだろうか。 (私、姉さんに愛されなくて当然だった。甘えるばかり、頼るばかり。それでいてあなたのため、あなたのためと、自分の理想を押し付けて、きっと重かっただろう)  涙が、こぼれ落ちた。  明彦はそんな麗でもいいと言うのだろう。  引きこもって、あの高価なマンションで、ずっと明彦の帰りを待てばいい。  二人きりの世界ならば、きっと依存できた。  上辺だけの愛しているを告げて、甘やかして大切にしてもらうのだ。 (それは私にとっても、明彦さんにとって、本当に幸せなのだとは、思えない)  いい加減、大人になるときが来た。  自分の幸せだけでなく、明彦の幸せを考えるときが。  離れたのはやはり正解のように思えた。 「なるほど。……おじさんには単純な話に思えるけどなー」 「単純ですか」  麗はちょっとムッとして唇を尖らせた。 「うん。まずは一発、相手の男を殴るだろ?」 「え? 殴るんですか?」  目を丸くした麗に、森田は頷いた。 「うん、殴っちゃえ。ぼこぼこにして思い知らせてやるといい。君の強さを証明するんだ、物理的にね」  麗は一人で立てる。誰かに縋るのはもうやめたい。 「逃げることは、悪いことじゃない。でも、逃げた先でこれでよかったと思えないなら、逃げるべきじゃない。だって君の幸せはここにはない」  そうだ、ここでは心は乱れないが、幸せではない。  寂しい。スナックのドアが開く度、明彦が迎えに来てくれたんじゃないかと、馬鹿みたいな妄想をしてしまう。  一人で布団で寝ている時に、隣に温もりがなないのが不思議で、料理はつい手抜きになって、安いドライヤーで髪を乾かしているときは、一人ぼっちなのだと痛感する。  一人でテレビを見ていた幼いころのように。 「そうね、一回帰んな」  後ろからママの声がして、麗は振り向いた。  裏口から戻ってきたであろうママは髪が濡れていた。 「タオルを……」 「いいから聞きな」  麗がタオルを取り出すため動こうとしたが、ママに制されて叶わなかった。 「あんたの母親は男に取りすがって自分から不幸になっていった。娘のあんたは同じ轍を踏みたくないがために逃げてきたのなら、考え直しな。あんたとあんたの母親は違う。あんたの人生はあんたが決めるんだよ」  厳しい言葉に項垂れると麗の頭にママの手が乗った。 「後悔のないように生きるのは難しいけれど、後悔するとわかっていることがあるならどんな結果になろうとぶつかりに行きな。もし、駄目だったらここに帰ってきたらいいんだから」  スナックの扉がまたゆっくりと開かれていく。  時計を見ると開店時間を過ぎているので、お客さんだろう。  もう、ドアの向こうに明彦がいるかもと期待しなかった。
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