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『明希ちゃん、早く一緒に帰ろう』
その文字列を目にして、明希は一瞬目を丸くする。それから隣に立っている立岡を見上げると、彼は何も言わずにただにっこりと微笑んでみせた。
「……ずいぶん、積極的な店員さんだね?」
「そうですか? 中里先輩を心配してるだけですよ」
「それだけじゃないと思うんだけど……まあ、いっか」
小さく笑ってから、明希は残りの仕事量を確認すると「あと三十分だけ待って」と、彼にしか聞こえないくらいの声で呟いた。
それを聞いた立岡は嬉しそうに破顔して、いそいそと明希の隣の席に座る。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。
「それにしても……転勤じゃなくてよかったけど、立岡くんが一課に行っちゃうのは困るなぁ」
「大丈夫ですよ、中里先輩なら。それに、岩村さんも手助けするって言ってましたし……新しいアシスタントが入るまでは、大変かもしれないですけど」
「そうだね……あと単純に、ちょっと寂しいかな。立岡くんが隣にいないっていうのは」
明希がぽろっと本音を零すと、立岡の動きがぴたりと止まった。
「……なんで、そういう可愛いこと言うかな」
「えっ?」
「はあ……ただでさえ色々我慢してるのに、明希ちゃんがたまにデレると攻撃力高いからやめてほしい……」
「な、なにそれ!? そ、それに、名前っ! まだ仕事中なのに……!」
「誰も聞いてないよ。それに今のは、明希ちゃんが悪い」
なんだか納得がいかないが、立岡は明希の反論を遮るかのようにパソコン画面とじっと向き合っている。悪いことをした覚えはないが、とやかく言うと後で自分が痛い目を見ることになりそうだからやめておいた。
とりあえずラテが冷めないうちに一息つこうと、明希は眼鏡を外してカップに口をつける。彼が買ってきてくれたラテを一口飲むと、疲れ切った心と体が癒されていくような心地がした。
「はあ……甘くておいしい……」
「よかった。俺の愛がたっぷり入ってるからね」
「バニラシロップでしょ」
ふざけながら、二人揃ってくすくすと笑い合う。気張らずにいられる彼の隣は、なんて居心地がいいのだろう。
ラテを飲み終えた明希が「もうひと頑張りしようか」と呟くと、「そうですね」と堅苦しい相槌が返ってくる。どうやら、立岡はもう仕事モードに入ってしまったらしい。
切り替えの早い彼に感心しながらも、なんだかそれが寂しいようにも思えて、明希は少しでも早く彼と二人で帰れるようにキーボードを打つ手を早めた。
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