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ピリリ……!ピリリ……!
翌日、プライベートルームの片隅で鳴る目覚まし時計の音に、テルミは深い眠りから意識を手繰り寄せた。
本来、安全のために就寝時は寝具に身体を固定しなくてはならないのだが、テルミは狭い個室でぷかぷかと浮いて寝るのがお気に入りだ。室温も快適で、まるで水中を漂う魚のような開放感を味わえるのが堪らない魅力。
「ふわぁ……もう起きる時間か……DOGI、照明を点けて」
やや不機嫌な声に反応して、部屋の照明が自動で明るくなる。
テルミは近くの壁を軽く蹴って目覚まし時計に近寄り、アラームのスイッチを切った。緑色に光るデジタルが示す数字は、7時15分。
デイモスの『1日』は、火星の自転周期に揃えて24.67時間である。また、1年もその公転周期に合わせて687日と地球の2倍弱に規定されている。
『この世界で究極のアンチエイジングは火星に滞在することだ。何しろ687日で1歳しか増えないから』というジョークが語られるのも、そのためだ。
簡素なアルミ製の洗面台で歯を磨く。少々不満だが、顔はウエットティッシュで拭くしかない。何しろ迂闊に水で顔を洗うと、蛇口から出た『水玉』に口と鼻を塞がれて呼吸を取られる危険があるからだ。
制服に袖を通し、髪に薄くジェルを馴染ませる。ここは火星とは違って微小重力下だから、そのままだと毛先があらぬ方向に散らばって格好悪いのだ。いっそ短髪にした方が楽なのだろうが、そこは女性としての矜持と言えよう。
「……それにしても、デイモスに戻ってすぐに仕事のローテを組まなくてもいいのに……」
どうしても愚痴が口をつく。
「帰ってきたハナは無重力頭痛で調子が悪いんだからさぁ……」
重力が無いと、どうしても血液が頭に集まりやすくなる。俗に『ムーンフェイス』と呼ばれる現象で、頭痛の原因になるのだ。数日もすれば身体が適応するが、それまでは不調を抱えて耐えるしかない。
簡単にメイクを済ませ、すぐに部屋を出る。食事は基本的に係官専用のスペースでしか提供されないから、そこに行かないと食べられないのだ。
「おはよー! テルちゃん、戻ってきたの?」
知り合いの女性係官が、すれ違いざまに手を振ってくれる。
「ああ、おはよー! そう、昨日の便で戻ったの! またよろしくね!」
手を振り返し、ブースターのスイッチを入れる。
ブシュ……と短い音がして、身体が通路を進み始めた。
デイモスには、総勢で3000名を超える係官が任務についている。その全員に個室が与えられているため、その居住区はそれだけでひとつの街ほどの規模であった。
居住区には、まるでアリの巣のように円筒形の通路が縦横無尽に張り巡らされている。無重力に近い空間だから、階段やエレベーターの類は存在しない。
係官居住区は殺風景で何処も似たような構造だから、テルミも最初はよく迷ったものだ。
「ちっ……やはり出遅れたか……」
思った通りと言うべきか、体育館ほどの広さを持つ係官用レストランはすでに朝のラッシュアワーを迎えていた。勤務の時間は細かくローテーションが区切られているとは言え、不思議に皆と同じ時間で食事をしたがるのは人の性なのか。
大柄な男性係官の間から手を伸ばし、『本日のパン』からバターロールを2つ取る。それから濃縮還元されたオレンジジュースのパックと袋入りの生野菜を取って窓際に移動した。
野菜は散らばらないようにドレッシングで半固形化処理がされている。
「あーあ、この混み具合……デイモスに帰って来たっていう実感が湧くわね……」
熱気とざわめきに溜息をつきながら、テルミはパンに齧りついた。
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