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湖畔に、水の波紋が幾重にも広がる。
どうやら雨が降ってきたらしい。空を見上げると、灰色に濁った雲がいつの間にか太陽を隠していた。
隣で気持ち良さそうに眠っていた狐も目を覚まし、空を見上げる。その鼻先に雨粒が落ち、狐は煩わしそうに頭を振った。
「あれま、降ってきちまったねぇ」
「そうですね。今日はもう帰りますか?」
ウーンッ、と伸びをして、狐はふわりと尾を揺らす。
きめ細やかな美しい黄金の毛並みは、太陽の光に照らされるとそれはとても綺麗に輝くのだ。特に夕焼けの真っ赤な太陽の下では、まるでその化身になったかのように、狐の毛並みは燃え上がる。
今日はそれが、どうやら見られないらしい。
ちょっぴり残念だが、明日の楽しみにするとしよう。狐は千年生きるのだ。
「そっさな。濡れるのはどうも敵わんから、今日はもうお開きにしようかね」
目を細めて、狐が鳴く。
その声は、朝と夜が入れ替わる合図。
ここでは太陽と月が、時間を刻む調べとなる。
この湖と、周囲に広がる深い森には様々な動物たちが暮らしている。
湖の中央にぽつんと浮かぶお社は、この地域一体を護る神様で、狐は朝から夜にかけて、神様を護る番獣として湖畔に現れるのだ。
そして夜の帳が下りる頃、役目を終えた狐は、その番を交代する為に合図を送る。
背後の木々が、静かに揺れる。
そうかと思えば、狐より一回りも二回りも大きな体躯をした真っ黒い獣が、のそりと姿を現した。
「やあ、今晩は。お務めご苦労。交代だぜ」
「やあ、お早う狼殿。すまないね、雨はどうも苦手なんだよ…早急に失礼するとするよ」
言うやいなや、狐はくるりと一回転をした。
すると一瞬光を放ったかと思えば、狐の姿は消えてしまった。
余程濡れるのが嫌だったらしい。いつもなら森を駆け巡ってから寝所に帰るのに。
その様子を見て狼は、低い唸り声を洩らした。
「はっは…雨など久しいからな」
どうやら笑っているらしい。
どんどん強くなる雨を気にもせず、狼は濡れた草の上に腰を据えた。
その青い、青い瞳が、すっと細まる。
「主は帰らなくていいのかい。もう夜だ、大抵の動物たちは森の闇に飲まれてしまう。目が効かなくなるから、怪我をするぜ」
「ああ…大丈夫です。僕は」
僕は、言い掛けて口を噤む。
狼はそれで全てを悟ったようだ。耳まで裂けた口を歪ませ、低い声でまた唸った。これは、恐らく笑い声。白く長い牙が、ちらりと顔を覗かせる。
「そうか主は…この世の者ならざる子か。それなら、夜の闇も受け入れられよう」
狼はその場に寝そべると、お社をちらりと横目で見つめた。
「夜はまだ長い。その間に、主の話でも聞かせておくれ」
この湖は、この森は、とても優しい場所だ。
そこに縛る鎖は何も無い。
自然の摂理に身を任せ、動物たちは今を生きている。
雨に身を委ねる狼を見て、濡れない僕の身体を少しだけ恨んだ。が、狼に急かされ、慌てて生前の話を語り出す。
僕は何故ここに居たのか。
それは、僕自身も分からない。
この後どこへ行けばいいのか、それすら何も。
そんな事を話したら、狐も狼も、尾を揺らしながら答えた。
「大丈夫、成るように成るさ」
その言葉に小さな安堵を覚え、僕はまた、狼に語りを聞かせる。
これは、ただこれだけのお話。
深い森の中にある、お社がぽつりと浮かぶ湖の、ただの一瞬のお話。
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