虞美人草の怪談 森沢家

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虞美人草の怪談 森沢家

がくん、と勢いよく衝突した時のような衝撃を受ける。ガチッと歯を思い切りぶつけて、その痛みで更に硬く目を瞑った。 完全な暗闇。 先ほどまでとは違う。瞑っていても明るかった世界が暗闇に落ちたように深い闇に覆われている。 「遥!」 その声にはっと目を開いた。 「清美さん……」 校庭を紅く燃やしていた夕日がその姿を遠く山の向こうに隠し始めている。 (ここは……) 下駄箱まで戻っていたはずの身体は、あの体育倉庫のすぐそばにいる。無造作に足元に落ちているのは遥の通学鞄だった。 「大丈夫……?かなり長い間ぼーっとしてたけど……」 「清美さん、笑っていただいても構わないのですが、1つ聞いてもいいですか?」 「笑わないって、こんな状況で……」 清美を伴って体育倉庫前まで歩く。1人ではしばらく戻りたくない道だ。 先ほどまで自分が立っていた場所にぴたりと止まる。 「ここに、死体があったんです。清美さんは見ませんでしたか?」 遥が指差す先には、血も木の枝が刺さった死体も血濡れた机の階段もない。清美に伝わるのは遥の僅かな指の震えだけだ。 その指を降ろさせながら清美はただ首を横に振る。 夜闇とともに遥の漆黒の髪が溶けていく。その暗闇に遥が消えてしまいそうで、降ろさせた手をそのまま握っていた。 この歳になってから友人の手を握ることなどあっただろうか。改めて考えると、気恥ずかしさがあるから無意識に避けていたのかもしれない。 「ありがとうございます、清美さん」 しばらくして遥がやっと少し笑顔を見せた。手に心臓があったように脈打っていたのも今は治り、落ち着きを取り戻している。 「このまま続ける気??正直……遥が危ないと思うんだけど」 「そう、かもしれません……。でも続けます」 まだ落ち着いている。 その上での判断なのだろう。清美は大げさにため息をついて、遥の手を離した。 「分かった」 清美は遥の先を歩き出す。そのせいで表情は見えなかったが、怒っているわけではないだろう。 小走りにそんな清美の隣に並ぶ。 「虞美人草の怪談……少し内容が見えてきたかもしれません」 「さっき、何があったの?それのおかげで分かったの?」 「そうです。でも今は急ぎます。 森沢さん、まだ助かるかもしれません」 森沢、教室でみた写真の女の子の事だろう。そういえば名前などはまったく聞いていなかったかもしれない。 「2丁目に家があります。そこで森沢さんに会って話をして、その後続きを話しますね」 とにかく遙は急ぎたいらしい。 黙って頷く清美を確認してから、大きめの歩幅で歩き始めた。すでに夕陽が落ちてしまった。 学校を過ぎて少し歩けば2丁目だ。2人はすぐに森沢の家までたどり着く。 「それじゃ遥。インターホン、押すね」 遥は人見知りがちで、初対面はもちろん中途半端に付き合いがある相手に対してもその能力を発揮した。清美が臆さない性格で良かったと心から思う。迷う事なくインターホンを深く押し込む清美の後ろで、こっそりと安堵していた。 何度目かの呼吸の後、妙にやつれたような……ノイズがかった声が聞こえた。耳を近づけてもうまく聞き取ることができない。 「あの!娘さんの友だちで! ダメだ……こっちの声も聞こえてないっぽいね」 「清美さん、これ霊障ではないでしょうか」 「霊障?なんかわけのわからない現象が突然起きるやつだっけ」 「邪魔しようとしてるのかも……」 遥の言葉に2人は目を合わす。 一呼吸置いて遥が慌てた様子で高くはない門に手と足をかける。 形振り構ってられない、とばかりに門を乗り越える気だった。もたつく遥を下から押して手伝ってから清美も軽々と門を乗り越えた。 先に降りた遥が扉を開けようとするが、何度動かしても開かない。窓側に回ってみるが、この暑い時期にどこも締め切られたままだ。 もちろん冷房をつけている家が多い時期でもあるため何もおかしくはないのだが。 「森沢さん!おられますか!」 遥が渾身の大声を出す。 「森沢サン!」 清美も続く。これだけ声を出していれば誰か出てきそうなものだ。ましてや自分の名字で呼ばれていれば尚更のこと。家族がいるなら家族が出てきてもおかしくない。 しかし辺りは静かなままだ。2人の声まで吸収されてしまったように静寂が戻ってくる。 「一度外に出ましょう。もしかしたら……」 遥の言葉に従って2人は門の外に出た。閉まっていたはずの門が開いていたが、清美は特に何も言わずに通り過ぎる。 唇に手を当て静寂を促す遥に習って、じっと家を見た。 先ほどまでと違う。窓が開いている。 「虞美人草が届いた時、森沢さんに関連する人間がある条件下の元で彼女の見ている世界に取り込まれるようです」 遥は自分の肩を抱きながら呟く。 先ほどの学校での光景はおそらくそういう事だ。そして2人が門を乗り超えた時も今とは違う世界にいたのだろう。実世界の家の門は閉まっておらず、窓も締め切られてはいない。 今はまだ虞美人草の怪談が作り出した世界に取り込まれる条件も、そして戻って来る条件も分かってはいない。 背筋に汗が伝うのが分かった。心臓がうるさい。遥は初めて冷や汗というものを味わっていた。 今度は清美まで巻き込まれて、虞美人草の怪談が作り出した世界に取り込まれたのだ。精神的なものか身体的なものか、とにかく清美には学校の時と今とで何か違ったはず。 遥はじっと清美を見た。焦燥感からか暑さからかじわり、と汗を滲ませて家を見上げている。 「あなたたち……どうしたの?」 家の前で深刻な顔をして家を見上げている制服姿の2人。それが自分の家の前であれば声をかけるのも自然だ。 遥は慌てて清美の後ろに隠れる。 「裕子の友だち?いつもは朋ちゃんが来てくれるんだけど……」 森沢の母親だろうか。清美が答えようと口を開けると、下で遥が袖を引っ張った。 「裕子さんは森沢さんで、朋絵さんは同じクラスメイトの子です……」 清美でもやっと聞き取れるくらいの小声で遥が教えてくれる。清美の制服を掴んだまま背後に隠れる姿は、初対面の人に会う激しい人見知り最中の幼児のようだ。 遥は以前特に大人が苦手だと言っていたから、おそらくその苦手を最大限に発揮しているのだろう。 「私たち朋絵ちゃんの友だちで、今日来られない朋絵ちゃんの代わりにプリントとか持ってきました。裕子ちゃん、」 「起きてますかって聞いてください」 「裕子ちゃん起きてますか?」 母親だろう女性の表情が曇ったのを清美も遥も見逃さなかった。両親の目から見ても何か起きていると分かっているのだろう。 「とにかく上がっていってくれる?」 母親の後について清美と遥も家の中に入れてもらう。先ほどまで入ろうとしていた妙に静かな世界とは違い、雑然として生活感のある一般的な佇まいだ。 「晩ご飯前なのにすみません。大丈夫でしたか?」 清美の言葉に合わせて遥も頭を下げる。 「大丈夫。あの、朋ちゃんからどこまで聞いてる?」 「いつから来てないかと、様子が変だって事くらいです」 恐る恐るといった体で遥も話し始める。 「森沢さん……裕子さんとお話させてもらってもいいですか?」 ため息をつくでもなく困った顔をするでもなく、森沢の母親はただ痛みに耐える険しい表情を見せる。 「あの子出てくるかどうか……」 一言言葉を発するたびに母親の顔色が青くなっていくのがわかった。ただ娘が出てこない事が理由だろうか。 「とにかく、やってみたいんです。お願いします」 清美が遥を庇うように身を乗り出した。 母親は首を横に一度振ってから立ち上がる。清美と遥を部屋の前まで連れていき、静かに頭を下げた。 言葉はなかった。遥も同じように頭を下げる。清美もつられて下げれば、母親はゆっくりと階段を降り始めた。 リビングの扉が閉まる音を確認してから、遥は清美の腕を小突く。 「一つ、実験したいことがあるんです」 「何?どうすればいいの?」 自分より頭一つ分高い清美の耳元に口を寄せて耳打ちする。清美の目が大きく見開かれ、そのまま遥と目を合わせた。 「お願い、しますね……。それでもし、学校の時と同じようにしばらく私から返事がなさそうなら森沢さんのお母さんも見に行ってあげてください。もしかしたら同じ状況になっているかもしれません」 清美が頷くのを確認してから遥は扉と向き合った。 ノックして入る。この行為ほど苦手なものはないかもしれない。たとえば職員室、生徒指導室、他にも色々あるかもしれないが学校生活で直面する場面はそれくらいだろうか。 この2、3度扉を叩く行為が先の未来を決めるかもしれない。その恐怖は遥にとってあまりにも大きい。 普段は気にしない素行を、根深い素行の悪さを見抜かれるようで。 それでも今日はいつもよりも早く決断しなければ。震える手で扉をノックする。 返事はない。 もう一度扉を叩く。 「森沢さん。朋絵さんの友達の須磨です」 扉の向こうからの返答はない。わずかな物音から生きていることだけが確認できる。 「ひなげし、ポピー……虞美人草、何と呼べば良いかわかりませんけど。届いていますよね?」 かつん、と床に何かを落とす音がした。 虞美人草、その言葉の後に遥の声を遮るようにしたその音に清美が少しだけ身を乗り出す。 「話してくれませんか。お願いします」 言葉による返事はなかった。 少しの間の後、ガムテープのようなものを切り裂く音が聞こえる。ドアノブを固定していたものを紐解く衣擦れの音、大きなものを引きずる音。 ひとしきりの騒音の後、少しの空気も嫌うように扉がわずかに開く。 食事やトイレは隙を見て行っているようだと言っていたが、部屋の荒れようは異常なほどだ。 出入りするたびに重ねて貼っているのか、扉を囲うように何層も重なったガムテープ。そしてその近くにはガムテープの芯がいくつも山積みされている。森沢自身はさきほどまで布という布に囲まれていたのか、森沢の背後にある布の山に人ひとり分の穴がぽっかりとあいていた。 窓、カーテン同士やカーテンと壁の隙間、如何なるモノの侵入をも防ぐようにそこら中がガムテープで埋められている。 閉ざされたこの空間で異質な雰囲気を発しているのは、外で華やかに咲いていたはずの虞美人草。季節外れの花。数十本というその花が、外界と切り離されたこの空間で散らばっている。 異様な光景だが、その中心に怯えて憔悴しきった森沢がいるその事実は妙に馴染んでいた。 清美が真っ先に近づく。ふらつきながら立っているその姿が痛々しかった。 一瞬の躊躇の後で清美が背中に手を当てれば、されるがまま森沢は床に座る。 「須磨さん……、それに赤江さんまで……」 その言葉の先には2人がここにいる理由も含まれている。 会話する為に遥は森沢の前に座った。 「水上さんが心配していました。私、この手の話に少し詳しいのでお力になれればと思いまして」 「この手の話………?あれの、こと?」 床に座った遥の指の先。届くか届かないかの距離に虞美人草が散らばっている。 「1日に、何回あんなものを見るんですか……?」 「え?」 「まだ一週間と少しくらいしか経ってないのにあれだけの虞美人草が届いて………」 いざという時は饒舌な遥の口が止まる。清美はその唇がわなわなと震えていることに気がついた。すぐさま遥に手を伸ばそうとしたが、震えたままの遥の声がその動きを邪魔した。 「ごめ、ごめんなさい。言葉が見つからない…」 すらすらと話すつもりだった。つまることなく冷静に事実を伝えるつもりだった。そうすればもしかしたら避けられる事もあるかもしれないから。 だがどうしても学校で見たあの光景が鮮明に、辛辣に、狂気的に、遥の思考を邪魔する。その赤色が目を瞑っても染まっていく。 遥が混乱し始めたすぐ後、清美が支えていた森沢の背が異常なほど震えだした。 寒さに震えるようにがくがくと体を震わせている。 「ごめん、ごめん私のせいで……わ 私のせいだ……!私がこんなだから、須磨さんまで……!お母さんも!ごめん、ごめんなさい……?ごめんなさい!」 「落ち着いて!遥、遥も落ち着いて!」 森沢の取り乱し方は異常だ。清美は先に遥を落ち着かせようと背中から手を離す。 遥の肩に手をかけたとき、横からどさっと倒れこむ音がした。 「森沢さ……」 「清美さん……!私が取り乱して、取り乱してしまって……ごめんなさい! ここに入る前に言った事、強く考えてください。忘れないで、森沢さんはこんな事で死んだりしません。清美さんだけは信じていて!」 「遥……。訳わかんない、なんなの!信じてるよ、当たり前でしょ!こんな事で誰も死んだりしない!」 「落ち着いたら……話します…………。絶対、絶対……に……」 遥の焦点が合わなくなった。清美の腕を掴んでいた指は順番に落ちていき、やがて腕ごとぱたりと落とす。 森沢のように倒れはしないが、こうべを垂れて座る姿は異様なものであった。 「遥………、はるか……」 学校の時と同じだ。呼びかけに応える様子はない。 「試したいなんて言って……見せたくないだけなんでしょ」 自分と違い漆黒の痛みの少ない髪を撫でてみる。同年代の女の子の髪を撫でるなど普通では絶対にしない行為だ。それでも、清美のことを考えて行動してくれる事実が嬉しかった。反面悲しかった。そんな気持ちを行動に表すと自然と手が出ていた。 言われた通りにしなければ。森沢と遥が起きないのを確認して、清美は部屋を出る。 遥の予想が当たっていれば、母親も遥と同じ状況になっているらしい。 出来るだけ声をかけ続けて起きるようにしてほしいと言っていた。そして森沢が無事だと真っ先に伝えてほしいとも。 一階に降りて最初に通されたリビングに入る。視界に入った森沢の母親は、机に突っ伏して遥と同じように固まっていた。 目がうっすらとあいている。 娘の事で塞ぎ込んでいたのだろうか。想像に難くない。 「おばさん!裕子ちゃんのおばさん!」 揺すってみてもやはり起きない。 遥が起きた時は一体何があったのだろう。 どういう条件で帰ってきたのだろう。 必死に考えてみるが、自分に起因があるような気はしない。ただ一心、遥が目を覚ますようにと願っていた。 それしかない。そうしよう。 清美はただ呼びかけ続ける。頭が悪い清美を他でもない遥が選んだのだ。自分の声で遥が戻ってきたのだと信じる他ない。 (私にしかできないってんなら……) やってやろうじゃないか。 そうして清美は声をかけ続けた。 (清美さんがいない……) 私が取り乱してしまったばかりに、森沢さんは部屋を飛び出してしまった。私はそう思っている。 清美さんはうまくこの世界を回避したんだと思う。森沢さんが部屋から飛び出したと思った直前の清美さんはまったく別の場所を見ていたから。 ここから身投げできる1番近い場所はどこだろう。 虞美人草の怪談は何故か基本は投身自殺だ。ただ高さが足りない状況でも、必ず死ぬ事ができるように自分で細工をする。学校ではそうだった。 この家なら? 私はとにかく部屋を出る。 2階から飛び降りたとしても打ち所が悪ければ死んでしまうだろう。下手すれば生き残ってしまって何度も何度も繰り返す。 こんな事が続いては、森沢さんの心が折れてしまう。 森沢さん! 私はこの悪夢のような世界でまた叫んだ。 届くのだろうか。この世界はどこまで私の意思が通用する世界なのだろう。 私の予想では森沢さんのお母さんも巻き込まれると思っていたのだけど、誰かがいるような感覚はしない。もしかしたらこの世界には森沢さんの死ぬ「姿」と私1人だけの世界なのかもしれない。 そう考えている間に私は無意識に、ある部屋の前まで来ていた。 ネームプレートがかかっている扉。私たちの年代が使うにしては子供らしいデザインだと思う。妹だろうか。 名前の部分がぐちゃぐちゃに塗りつぶされたそれは、明らかに異質なものとしてこの世界に、いやこの扉に存在している。 森沢さんが虞美人草に取りつかれた原因。今までの被害者との共通点がここにあるのかもしれない。 扉は私を拒むことなく開く。何かが落ちるような音はまだしていないが、部屋からの空気が流れ込んできた瞬間に心臓が騒ぎ出した。その音で鼓膜が破裂しそうだ。 そして開いた扉の先で、聞きなれない音がする。 その正体はすぐにわかった。 私は弾かれたように正面の窓へ駆け出す。 紐のきしむ音、窓明かりで揺れる影。 今まさに喉を締め付けられ苦悶の表情をした森沢さんが、その苦しみから解放されようと紐を切ろうとするところだった。 そう、首ごと。 握られたカッターナイフで首の肉ごと紐を切り裂きながら。 足をつかんで中に引き入れる。そう決めて腕を伸ばした瞬間、固いはずの床に沈み込むように足がとられてしまう。 何? 気持ちが焦って視界が揺れる。残像のように、私の足を人の手のようなものがつかんでいるのが見えた。 思わず息をのんで私は進もうとする足を止めてしまった。 ぶつん、と紐が切れる音がする。つられて顔を上げれば、死に向かう色のない表情と深く切り込みすぎた首からあふれる血が上へと流れる光景が目に入った。落ちていく森沢さんと目が合う。既に生気が失われた濁った目が恨むように私の目を見ていた。 同時に自分の足が解放されたのがわかる。 ふらつく足で窓までたどり着くと、そこには落下以外の出血で血だまりになった地面に人形のように突っ伏す森沢さんの姿があった。 私の手の下には、潰れた虞美人草。見下ろす血だまりにも色鮮やかに散っている花々が、ただ見せつけるように存在感を示す。 私を捕える何かはもういないのに、私はその場に座り込む。 心臓の音がした。 森沢さんの心臓はもう止まってしまっただろうか。 頭に血が上っていくのがはっきりとわかる。それでもこれは私の体内を巡っているだけのもの。 窓の下で今なお血を流し続ける森沢さんと私は違う。そのことを目の当たりにして私は動けなくなってしまった。 学校の時とは違う。目の前でこの手で助けられなかった今回とは違う。 そしてその衝撃よりも自分の足をつかんだ何かへの恐怖が今さら湧き上がってくる。人が目の前に死んだのに、自分に起こった恐怖のほうが感情的に優先されるの? 普通そういうもの?それとも私が冷たい人間だから? 自分の血が流れているのを感じるたびに嗚咽を繰り返す。 口元を抑えて耐えながら、私は目を開いた。自分が帰らなくてはいけないことを思い出したから。 しかし私を待っていたのは、森沢さんとはまた違う「生きてはいない者」だった。 遥の恐怖が頂点に達する。完全な思考の停止、体はすでに動くことをやめていた。 生理的な反応で震えだけが止まらない。 遥の視界にいたのは、明らかに生きた人間ではなかった。 目が落ちて窪んだ真っ暗な闇、ひしゃげた鼻、口をひきつらせたまま固まった血。首がねじ曲がっているのか体を横にして遥を見上げている。 座り込んだ遥に這いずるようにそれは近づいてきた。 (帰らなきゃ……この世界からとりあえず、一旦……) 学校での事を思い出す。どのタイミングで帰ることができたのだろう。何がきっかけだったのだろう。 (清美さんが呼びかけてくれていた、これは多分条件の一つ……) 遥は深く息を吸って一度自分を落ち着かせる。平常まで、とはいかなかったがこの状況を考えるだけの余裕は生まれたようだ。 目の前の死んだ人間から逃げるように目を瞑る。ゆっくりと自分の身体を後ろへずらしながら、遥は思考を続けた。 (清美さんは現実の世界でこちら側にきた人を呼び戻そうとしてくれてるはず……。「帰ってきてほしい」と思うことが条件?それだったら最初の呼びかけで帰れるか……) 窓は扉からみて正面にあった。 このまま下がればいずれは廊下に出られるはずだ。もしかしたらそこで、目の前の化け物が諦めてくれるかもしれないという一心で遥はあくまでゆっくりと後退し続ける。 急に走ることができないというのももちろんだが、とにかく今は刺激するような事を極力避けたかった。 (襲われたら死ぬかもしれない。あの時も確か、このまま独りでいたら死ぬかもしれないと思ってた) はた、と遥は目を開いた。 死んだ人間だったものは先ほどよりも遠くにいる。遥が下がるスピードよりも這いずる速さが遅かったのだろうか。 落ち着いてもう一度深呼吸する。 叫ばなくていい。 呟くだけでいい。 「私はここにいます。生きてます。 清美さん、私を信じて」 下がりながら言葉を繰り返す。 もしまだ森沢の母親を呼び戻していたとしたら、遥はまだ戻れないかもしれない。 その間逃げればいい。焦らなければこのままやり過ごせるはず。 あらかじめ大きく開け放ったままにしておいたせいか、部屋の空気と廊下の空気が混ざるちょうど真ん中まで来た事に気付く。 少し手をずらせば、扉のあった境目に手が届いた。 「清美さん」 背中はもう廊下まで出ている。 化け物が止まる様子はないが、距離は開く一方だ。 「生きて清美さんを待ってますから」 身体が全て廊下まで出た。風が通っているのか涼しい空気が流れる。 体感的にその涼しさを受け取ったのとほぼ同時だった。 がくん、と世界が一段下がる。 予想外のタイミングに歯同士を強くぶつけ、痛みに目を固く閉じた。
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