水を跳ねる魚

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 宮本はベンガリー・トラにあるゲストハウスに戻ると、気絶するようにベッドに倒れ込んだ。緩やかな眠気と共にやってきたのは古い記憶、淡い白昼夢だった。  夢の中、宮本は八歳の男の子になっていた。派手な服を着た母親が、宮本に何かを言い聞かせていた。三回、陽が登った。母親は酒と煙草の匂いをさせながら帰って来た。後ろから姿を見せたのは知らない男。彼等は奥の四畳半、襖を閉め切ると暫く出てこなくなった。宮本は押し入れの中、耳を塞いでいるしかなかった。○○さん、と少年の宮本は言った。○○さん、助けてと。  目が覚めた時、時刻は昼過ぎになっていた。ベッドから身を起こした宮本の体は汗みずくになっていた。  宮本は洗面所で顔を洗い、それから宿を出て、近くの飯屋に入った。  適当な席についてバターマサラを注文する。店内にはバックパックの日本人観光客がちらほらといるのが見えた。  宮本はチップを払って外に出た。庇の下、宮本は煙草に火を点けて食後の一服をした。  暫くして、若い男が隣に並んだ。男は煙草を咥え、ライターを擦るが火は点かない。 「ライター、使います?」と、宮本は言った。  男はこちらに視線を上げ、「あっ、すいません」 「ガス、少ないですけど」  男は礼を言ってライターを受け取るが、ガスが切れたのか、またもや火は点かなかった。 「すいません、他のは?」と、男は申し訳なさそうに言った。 「ない」 「そうですか」と、男は言った。「ちょっと失礼」  男は煙草を咥えたまま、顔を近づけてきた。頭を傾け、切り口と切り口を合わせて火を移し取る。男の体温が、すぐそこにあった。日に焼けた肌、鼻先の傷、頬の産毛まで見えそうなくらいに近い距離。咥えた煙草の先端は、火葬場の炎のように真っ赤に染まった。 「どうも」男は言い、体を離した。「俺、ガンガ・ホステルに泊ってるんですけど」 「俺も、そこですよ」宮本はそう言っていた。 「偶然ですね」男はそう言って笑った。人懐こい笑顔、笑うと細くなる目元は何となく柴犬を思わせた。「俺、一昨日来たんですけど、まだ火葬場に行けてなくて。お兄さんは?」 「朝に」 「朝に行ってきたんですか?俺、水島保っていうんですけど」と、男は言った。「お兄さんに頼みがあって」 「何?」 「俺を火葬場に案内してくれないかなと。これも、同じ宿に泊ってるよしみですから」  水島の話では、これまで散々強引な客引きに遭い、市内を連れ回された挙句、法外な案内料を搾り取られた。外を出る度、声を掛けてくる客引きに負け続けた結果、滞在二日目にも関わらず、彼は未だ火葬場に辿り着けていなかった。  宮本は暫し考えた。日本人観光客とつるむ気はなかった。けれど、昼間に見た夢の後味の悪さがまだ舌に残っていた。少しは気分が変わるかもしれないと、宮本は思った。カレーの後に飲むソーダ水のように。 「分かりました。案内しますよ」 「本当ですか?ありがとうございます」水島はそう言い、柴犬のような顔で笑った。  宮本は一旦、自分の部屋に戻ると、スパイスと汗と火葬場の匂いが混じったシャツを着替えた。バルコニーから見えるのは昼間のガンジス河。水平線の奥は揺らいで、まるで砂漠の蜃気楼でも見るようだった。
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