0人が本棚に入れています
本棚に追加
倶盧蜜はその息さえも漏らさぬように口に手を当て草むらを掻き分けながら大鹿の後ろまで回る。
荒くなる呼吸と、ドンドンと脈打つ心臓を落ち着け!落ち着け!と自己暗示をかけながら父に渡されていた鉈を腰から引き抜いて時を待つ。
風が強く吹き、そして止んだ瞬間、倶盧蜜は飛び出して大鹿に斬りかかる。鉈を振り上げ大鹿の腰目掛けて振り下ろそうとしたその時だった。
「きゃう!」
泣き声が聞こえた。
それは大鹿に知らせるためのものであったと瞬時に理解した。
目の端に大鹿と同じ鹿がいたのだ。
きっとこの鹿の子供なのだろう。
危ない!とそう聞こえたのだ。
手が、体が、思考が止まった。
当たり前の事だ。
この鹿にも人と同じように家族がいる。
自分と同じように家族を想っているのだ。
あぁ、なんて事をしているのか。
父がいつも狩って来るあの生き物達には家族がいて、それを知らずに食していた。
今までずっと死に対して無関心でいた。
なのに、もうできない。
倶盧蜜の表情からは獣を狩る殺意はなく、戦意を喪失していた。
大鹿はその隙を見逃さず、後ろ足で蹴り飛ばそうとしてくる。
あぁ、死ぬ。
でもそれは仕方のない事だ。なんせ自分もこの鹿を殺そうとしたのだから。
そこに恨み辛みは無い。
「倶盧蜜!」
父が飛び出していた。
それに釣られた大鹿がびくりと身を震わせる。
その大鹿の首を父は手に持った鉈で叩き斬った。
ばぐん!と体から離れた首が池に沈む。
大鹿の体は痙攣するとその場にどさりと倒れた。
「きゃう!」
子鹿が首のない大鹿の体へと駆け寄り、顔を擦りつける。
この子鹿かなり小さく、倶盧蜜の腰ぐらいの高さしかない。
まだある温もりを精一杯感じているのだろうか。
この子鹿は親鹿が死んだ事を理解しているのだ。
倶盧蜜は呆然としていた。
父の咄嗟の動きも凄かったが、それより何より今日命というものを真の意味で理解した。
自分は、与えられていたのだと。
命を狩るその場には居合わせず、なんの労力も無く、口に入れられるのを待っている雛鳥のようにあの家で、兄妹たちと一緒に餌を与えられるのを待っていたのだった。
父はその子鹿をも手に掛けようとしていた。
それを倶盧蜜は止める。
「やめて!」
ピタリと父の動きが止まる。
「それも獲物だ」
「わかってる。だけど、目の前で親を殺されたこの子鹿は見逃してあげてよ」
最初のコメントを投稿しよう!