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☆
つい数時間前に下ったばかりの階段を重い足で上る。真上から容赦なく照りつける太陽。僕は日陰を求め足早に部屋へと向かう。
扉の前に立つと、3、1、2のリズムでノック。僕らの合図。インターホンは随分前から電池切れだ。
しばらくすると、鍵がガチャリと開いた。ヒロが顔を出す。表情が朝より疲弊している。
「ちょうどお昼にしようと思ってたんだ」
「うん……それより何で片足立ちなの?」
「色々あってね」
「てか君鍵は?」
「……あ」
ヒロが吹き出す。彼女が笑顔を見せた事に少しほっとしながら、僕は部屋に入る。エアコンが付いていないが、少しひんやりしている。コップの水道水を煽りながら、もう片方の手でネクタイを解く。
「ユウ!パスタしかないけどそれでいい?」
ヒロが尋ねる。希望を聞いているように聞こえるが、彼女の手元では既にお湯が沸かされている。僕はコクリと頷く。
部屋を見ると、彼女の煩悩が見て取れた。床中に散らかった丸められたメモ用紙。そのうちの一つを僕は広げる。
「転校してきた少女は宇宙人で────」
「ちょっと待ったぁ!」
全て読む間もなく、ヒロにひったくられる。
「何の仕事の?新しいゲーム?」
「それは違う。コンクールに出すやつ」
ヒロは映画の脚本を書くのが夢だ。そのために仕事と並行して様々なコンクールに応募している。
「応募したけど選考通るか分かんない」
「面白い脚本じゃない」
「面白い脚本より、在り来りでも皆が好きなストーリーの方が評価されるんだよ」
「分かる人は分かってくれるよ」
「万人受けしなきゃ商売にはならないの。あ、そのパソコンどかして!」
ヒロがお皿を机に置く。小さな机はそれだけでいっぱいになった。
「ヒロは彼氏とか作んないの?」
箸でパスタを啜りながら聞く。
「いい加減着飾ってモテるように努力しろって意味?」
「こんな男と暮らしてないで、いい人見つければいいのにって意味」
ヒロは少し考えた後、呟く。
「こんな中途半端な状態で誰かと付き合うなんて私のプライドが許さないかな」
そう言ってパスタを箸で摘む。「自称脚本家でお金もないしね」
僕は何も言えなかった。沈黙が流れる。それを埋めようとパスタをひたすら口に詰め込む。醤油と油が絡められただけの、低コストな料理。食べ慣れたその味は食欲をそそるものではないが、今は手が止まらない。
「そういう君は?浮いた話聞かないけど」
「さっきの仕返し?」
「可愛い後輩ユウキ君へのお節介」
ヒロが悪戯っぽく微笑む。僕は────
「仕事が決まるまではちょっと…って感じかな。今日の面接もイマイチだったし」
僕は手を止め、溜息を付く。
「……そっか。でもそれはユウのせいじゃないよ」
初めは好調に進んでいた面接。しかし、面接資料に目を通した試験官は急に態度を翻し、そそくさと面接を終わらせた。
ヒロが箸を振りながら力強く言う。
「だってユウは真面目だもん。学生時代から知ってる私が保証するよ」
「人一倍真面目な病気持ちよりも、普通の健康な人間の方が有利なんだよ」
「うーーー……」
彼女は小さく唸ると、黙って皿のパスタを口に運ぶ。僕も皿に目をやるが、もう何も残っていなかった。仕方なく皿を机に置く。やる事がないので窓の外に目をやる。
「でも僕は恵まれてるよ」独りごちる。
「ご飯も食べられるし、こうして語り合える人もいるし」
「……変な子」
ヒロはそう呟くと再びパスタを啜った。
皿を綺麗にしたヒロは、パソコンを開き、作業に戻る。僕はその向かい側で雑誌を眺める。昔どこかのサービスエリアで貰ったそれは、長い年月で擦り切れていた。
暫くお互い黙っていたかと思うと、家にあった固定電話が鳴った。発信者を見て、ヒロが溜息をつく。そして受話器を掴むと荒い動作で耳に当てた。
受話器からはヒステリックな女性の声が響く。その女性が声を荒らげ、ヒロはそれを黙って聞いている。時折ヒロの掠れた声の返事が混じる。週に一度はヒロの実家からこのような電話がかかってくる。彼女を叱る内容が殆どだ。
僕は小さくなって雑誌の一点を見つめる。その間も絶え間なく罵声が受話器からは洩れてくる。お母さんは心配してるのよ!いい加減ちゃんと働かないと────僕まで怒られているような気分になって、思わず目を瞑る。さっき食べたパスタがずっしりと胃を圧迫する。
そうして早く終わりますように、と願いながら穴が空くほど見た記事を見る。内容は頭に入ってこない。
ヒロが受話器を置いた。そしてこちらへ戻ってくると、パソコンの画面を静かに閉じた。
「……ごめんね」「ううん」
僕は静かに首を振る。それを見届けるとヒロはタオルを掴み風呂場に消えていった。
その日、それからヒロと口を利くことはなかった。
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