それでは、お先に

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 大通りから一本入ったところにある、飾り気のない雑居ビルの一室は、真昼なのに薄暗い。腰掛けた革のソファーは氷みたいに冷たくて、体温を吸い取られていくようだった。  この部屋を訪れるのも、もう三、四度目になるだろうか、居心地の悪さは変わらない。  控えめなノックの音。  音もなく入ってきた小柄な女の背後で、ドアが軋んだ音をたてる。  不思議な女だ。表情も仕草も声色も少女のようなあどけなさを残すのに、目だけがあやしく光っていて、吸い込まれそうな深さがある。  美しい。彼女を見るたびにそう思わされてしまう。心の一番深い部分にある水面に、ゆっくり、ゆっくり、波紋が広がっていくような。誰にも見つからないように、注意深く隠していた何かまで、まっすぐに線を落とされてしまうような。そういう種類の美しさ、一種の静謐さを彼女は備えていた。 「お忙しいところお時間を頂いてすみません」 「いいえ、またお会いできて嬉しいです」 「来週の紙面に掲載予定の記事が完成しましたので、そのお届けと取材のお礼に参りました。お読みになって、どこか改善のご要望がありましたら、ご連絡ください」 「わざわざ来てくださるなんて、ありがとうございます。これはあなたが書かれた記事なのでしょう? でしたら何も」  肩で切り揃えた薄茶色の髪が、かろうじて差し込む陽の光に透けながら揺れている。 「それより、何か、訊きたいことがあっていらしたのでしょう?」  彼女が伏した目を上げると、視線が刃物のように鋭い線を引く。  二百人の人間が、彼女に心酔した。政治家、俳優、大学教授、サラリーマン、主婦、学生、ホームレス。それぞれの地位や立場を越えた、二百人もの人間が。  彼女は、とある新興宗教の教祖である。  半年ほど前、教徒たちが全国で一斉に集団自殺を図った。  戦後類を見ない、ショッキングな宗教的事件として連日報道が続いたが、警察の捜査では、他殺の可能性がないこと、教徒たちの自殺が自己決定に基づくものであったことから、殺人罪、さらには自殺教唆罪にも問えないとして、彼女と教団の疑いは晴れている。 「少し、踏み込んだことを訊いてもよろしいでしょうか?」 「ええ、もちろん」 「やはり私には教義の意味するところがよく分からないのです。生者と死者は同じ世界にいる、とはどういうことですか? 死者を呼び起こすような儀式をされている訳ではないのでしょう?」 「私にそんな力はありません。私はただ、この世とあの世は重なり合う部分があるものなのだ、と伝えるだけです。亡くなった方の存在を近くに感じたい人々に、あるいは生きることに苦しみ、倦んでいる人々に」 「死は苦しみからの解放だと?」 「否定も肯定もしません。それを決めるのは私ではなく各々の心の在りようですので」 「教祖としてのものではなく、あなた自身の言葉が聞きたいのです」  彼女の口元がふっと緩む。 「記者さん、あなた、愉快な人ね」  どこからか舞い込んだ風で、彼女の髪がふわりと舞う。 「無常、という言葉をご存知でしょうね」 「はい、仏教のものであれば」 「ええ。永続するものなど何もない。この世の全てのものは生滅変化して移り変わり、しばらくも同じ状態には留まらないという教えです」 「避けられない死に抗うことを諦めようということでしょうか? 生命に限りがあることを受け入れようと?」 「まず認識に齟齬があるようですね。死は生命の終着でも敗北でもありませんよ。生命を永遠とするために必要な通過儀礼なのです」 「生命を永遠とする、とは?」 「私たちはみな、産まれた瞬間から死に続けています。誰かと知り合った瞬間からその人を亡くし続けているし、何かを好きになった瞬間からそれを嫌いになり続けています。私たちは死までのカウントダウンが見えるわけでもないし、いつ友達や恋人が自分の前から姿を消すか予知もできないし、いつ好きなものに飽きて嫌いになってしまうのかも分からない。何かを失うってつまらないじゃないですか。そして、生命にしろ、関係にしろ、感情にしろ、何かを失うリスクに思い当たると、何かを所有することって怖くなるじゃないですか。普通なら十辛くなるだけのところを、十持っていた分、二十辛くなってしまうような、そんな気分がしませんか?」 「少し分かるような気がします」 「生命を永遠とする、というのは、その恐怖から放たれることです」 「自ら死を選ぶことにより、あらゆるものの喪失の恐怖から逃れようと? そんなの暴論です。では、自死を選んだ教徒たちに死への恐怖はなかったとお思いですか?」 「そうであることを願っていますが、実のところは分かりません。それでも、何かを恐れているより、それが起きてしまう方が、少なくとも安全な状態ではないですか?」 「自ら死を選ぶことは、生命に対する冒涜です」 「私は自死を勧めている訳ではありませんよ。ただ死は生の対極にあるのではなく、あくまでその一部なのだということを伝えたいだけなのです。それに、教義と社会との摩擦は避けられないことです。真理の在り方なんて人それぞれなんですもの」 「死は生の対極ではなく、あくまでその一部」 「ええ。亡くした方の存在をすぐ近くに感じたことはありませんか? 実家のお仏壇に手を合わせた時、重大な何かを決断する時、あるいは深夜にふとみた夢の中で。この世とあの世の境など、存外曖昧なものですよ」  ひと呼吸置いて、笑みを含んだため息がこぼれた。 「ああそう、記者さん、あなた、会いたい人がいらっしゃるのね」  からん。  グラスの中の氷の塔が、音を立てて崩れる。 「誰にだっているでしょう。亡くした人の一人や二人くらい」 「ええ、そうね。お気を悪くしたなら謝ります」 「あなたにはいないのですか?」 「ずいぶん不躾にお訊きになるのね」 「お互い様です」 「ええ。昔話です。私が中学校に入った年に母が死にました。入水心中です。名も知らない男と。たまに近所に出入りしていた土木作業員だったこと以外、私は何も知りません。母は、美しい人でした。強くて、綺麗で、聡明で。そして、不器用な人でした。常に何かに噛みついていないと生きていけないような類いの。上司の不正や社会の差別、この世界にありふれている理不尽に、いちいち反発しては損ばかりしている、生きるのがどうしようもなく下手な人でした。怒っていないふりをして、いつか本当に怒れなくなってしまうのが怖いのだ、とよく言っていました。母は常に怯えていた。得体の知れない何かからずっと逃げ続けていたような気がします。私と同じ、弱い人でした。近くの貯水池から引き上げられた、母のぶよぶよに膨れた死体を見た時、私は、母は許されたのだ、と思ったのです。何の心配もない、極めて安全な場所に辿り着いたのだ、と」 「それから、あなたは死を近しいものとして感じるようになった?」 「ええ。私は寂しかったのでしょうね。あるいは、愛されたかった。身に余るほどの愛が欲しくて、欲しくて、いつの間にかこんなに遠くまで来てしまったような気がします。母は私を一緒に連れていってはくれなかった。ならせめて、その存在をすぐ近くに感じていたい。それに比べたら、真実なんてはたして重要なことでしょうか」  あなたは、と言いかけて言葉を探す。なるべく丁寧に言葉を選びたい、と思った。 「あなたは、何を待っているのですか?」 「そのように見えますか?」 「ええ。本当に死にたかったのは、教徒たちではなく、あなたなのでしょう? あなたは死ぬに足る理由を待っている。明るみに出ない罪をいくつも重ねて、その罪を背負う形であちら側へ踏み出したかったのではないですか?」  彼女は一瞬驚いたような顔をすると、それから、くっくっく、と息を漏らした。  愉快でたまらない、というふうに。 「すみません、なんだか可笑しくて。そんな風に言われたこと、今までなかったものだから」 「慎みます」 「いえ、いいのです。私が死に焦がれているのは事実ですもの。でも、それは正しくないでしょう。私の死に誰の手も必要ありません。教徒たちが自ら望んで死を選び取っていったのと同じことです」  赤い舌が左から右へ、ゆっくり唇を舐めた。 「訊き残しはございませんか? きっともうお会いすることもありませんね。それでは、お先に」  部屋を出る彼女の微笑み、その蛇のような冷たさと美しさが、私をいつまでも捉えて離さない。
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