愛に降る雪

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 サリヤと求婚者たちとの面会の日々が続く中、ファリーダは週に一度の半日の休みをもらって王宮の外に出た。東に向かって歩いていくと、そこで驚くべき光景を目にする。 「……わぁ……!」  これが、タントレア象か。巨体をゆっくりと揺らしながら歩いてくるその姿を目にして、ファリーダの好奇心は湧き立ち、思わず声が出た。すると、その背に乗っていた人物がこちらに気づいて手を振ってきた。 「やあ! 護衛隊長どの!」 「……クレイ公子殿下?」  ターバンを巻き、余った布を肩に垂らしたタントレア公国のクレイ公子が、象のうえからファリーダに声をかけてくる。 (ぼく、名乗ったっけ……?)護衛隊長だと誰から聞いたのかはわからないが、とりあえず敬礼すると、ちょいちょい、というように手招きをされた。(……?)立ち止まった象に近寄るのは怖くはないが、何用かと思いながら歩み寄っていくと。 「ファリーダどの、だろう? 見回りかい?」  大きな声で象の上から話しかけられて、ファリーダは今日は遅番なのですと答える。「そうかあ!」なんとなく、この底なしの陽気さは自分と似たものを感じなくもない。 「象を近くでみるのは初めてかな?」 「ええ。乗り心地はどうです?」 「悪くはないよ。乗ってみるかい?」 「え、いいんですか?」  ファリーダが驚いて尋ね返すと、もちろん、と答えたクレイが指笛を鳴らして部下を呼ぶ。するとどこかから集まってきた彼の召使いが簡易的なはしごを持ってきて、もうひとりが象を操ってその膝をゆっくりと折らせた。 (象って、座れるんだ……)  驚きを隠せないファリーダに、象に乗ったままのクレイが「こちらへどうぞ」と手招きをする。(やった……!)こんな機会は逃せない。急いではしごを登り、クレイの前の席になんとか潜り込んで腰を下ろした。狭いが、確かに乗り心地は悪くない。 「揺れるよ、つかまって」 「……っ」  ゆっくりと象が立ち上がると、ぐらりと座面が揺れた。後ろに座るクレイが慣れた調子で腕を回して支えてくれる。人に触れられるのは久しぶりだった。 「わ、動いた……!」 「このへんをぐるりと散歩させてるんだ。少し付き合ってね」  その言葉通り、ファリーダとクレイを乗せた象は、ゆらゆらと揺れながら少しずつ歩き出し、東の離れの敷地をゆったりと散歩し始めた。(ああ……)慣れてくれば少しの恐怖心も消え失せ、ファリーダは初めての象上からの眺めを楽しんだ。 「すごい! 楽しいですね、クレイ殿下!」 「ははっ、そう言ってくれると嬉しいよ! ファリーダどの」 「呼び捨てでかまいませんよ、殿下」 「そうかい? ではファリーダ、この国は砂漠の中にあってとても美しいねえ」  初めて象に乗せてもらい、母国を褒められて、さすがに悪い気はしない。ファリーダはこの公子はなかなか好青年なのかな、と思いつつ、それでも、と口を開いた。 「ぼくに取り入っても、姫様の夫選びには影響しませんよ?」 「おや、そんなふうに言われると悲しいな、ファリーダ」  本当に心外そうな声に、悪いことを言ったかなと思いながらも、ファリーダとしては譲れない一線がある。 「すみませんね。ぼくから懐柔しようとするひとは多いんですよ」 「私はそんなつもりはないんだけどなあ。きみと仲良くなりたいんだよ」 「ぼくとですか? はあ……」  象の背に揺られながら、なんだかまるで口説かれているような……そんなわけはないのに妙な気分になりながら、ファリーダはつかの間の象の散歩を楽しんだ。その間、背後のクレイはずっと上機嫌だった。まあ、悪い男ではないようだ。 (姫様、どうするのかなあ……?)  今頃、シドラ国の貴族キールスとの時間を退屈に過ごしているだろうサリヤ姫にも、この象に乗ってもらいたいと思ったが、おそらくそれは危険だと父王が許さないだろう。彼女は自由に見えて自由ではない、それがファリーダには切なかった。     *    *    *    *   「レイヴ殿の故郷は、どんな場所なのだ?」  キールス、そしてクレイとの面会を終え、いつのまにか楽しみになっていたレイヴとの面会の時間を迎えると、挨拶もそこそこにサリヤは尋ねた。もっと、彼のことが知りたかった。 「私の故郷……ワシュラ聖王国の首都ファサールは、石造りの白い都です」 「白い、都……」 「ええ。高い塔をいくつも持つ城と城下町をぐるりと城壁が囲み、朝日を浴びるとそれはそれは美しく輝くのですよ」 「……」  まるで見てきたかのような描写に、ふとあることを思いついて。聞くのは失礼だろうかと感じながらも、サリヤは穏やかで繊細な面立ちのレイヴに尋ねた。 「その……ひょっとしてレイヴ殿は……昔は、目が見えた、のか?」  そうでなければ、今のような物言いは考えられない。なんとなくそんな気がして思い切って尋ねると、レイヴは一瞬黙ってから、ゆっくりと目を伏せて頷いた。 「……ええ。……十二歳までは、見えていました」 「……!」  そう、だったのか。今年で二十三歳だというレイヴは、では十一年前までは視力があったということになる。ではなぜ、今……。内心浮かんだその当然の問いを読み取ったように、レイヴが続けた。 「国の恥になりますので、隠されていますが……殿下には正直にお話しましょう」 「……うん……」  何を、語るつもりなのだろう。ふたりきりの小部屋で、サリヤはじっとレイヴの美しい水晶のような瞳を見つめた。彼の視界が闇に閉ざされていても、この想いが届くように。(レイヴ殿……)どんな話でも、私は大丈夫だと。 「私の産みの母は、私を産んでまもなく亡くなりました。数年後に父王は再婚し、異母弟ギランが産まれました」 「……」 「そのギランの母、つまり私の義母が……我が子ギランを王位につけるために、私の食事に毒を盛ったのです」 「……っ!」 (そんな……)そんな、ひどいことが。息を呑むサリヤの前で、レイヴは淡々と事実を告げる。身内に裏切られたレイヴは高熱を出して三週間もの間昏睡状態に陥り、やっと目覚めた時には視力と、健康な体を失っていたという。  「目が覚めた時は、驚きました……私は何も見ることができなくなっていて……肺も心臓も傷つきました。極めて強い毒だったそうです」 「……ひどすぎる……」 「私はそんな、悪運と弱い身体の持ち主なのですよ。あなたには、嘘はつけない……」  語るべきだと思った、というように、レイヴは静かに続けた。サリヤはあまりのことに何も言えず、涙がにじむのをこらえることしか出来ない。 「だから私は、あなたの夫にはふさわしくないかもしれません。サリヤ殿下……」 「レイヴ殿……そんなことはない、そんなことを言わないで……!」 「……お優しい方ですね。殿下は……」  サリヤと、どうかそう呼んでくれと言いかけて、まだそんなことを言ってはならないと思いとどまる。期待させることも、贔屓することも許されはしない。サリヤは唇を噛んで、言葉を続けた。 「その……義母たちは、その後どうなった……?」 「ナハトの父をはじめとする聖騎士団によって陰謀が明らかになり、義母は処刑されました。幼かったギランは追放され……その後、どうなったかは知りません」 「……そうか……」 「だから……私は、あなたたち双子の兄妹の絆が、羨ましいのですよ」  なんという、壮絶な過去だろう。本来なら愛されてのびのびと育つべき歳頃に、母と呼ぶ人から殺されかけたなんて……運良く助かったとはいえ、レイヴの視力と健康で丈夫な身体は二度とは戻ってこない。この優しい人に、何の罪もないというのに。そのレイヴが、そっと続けた。 「サリヤ殿下。あなたの声はとても力強く……そして、時に繊細に聴こえます」 「……私は、繊細なんかじゃ……」 「私は目が見えなくなってから、耳が鋭くなりました。……泣かないでください、殿下」 「……っ」  どうして、わかるんだ。私が泣きそうだということが。誰かのために泣いたことなんてないこの私が。「レイヴ、殿……」そっとサリヤの髪を撫ぜたり、抱き寄せたりする代わりに、レイヴは今日持参した細身の弦楽器を手にとった。 「辛い話を聞かせてしまった、お詫びに……故郷の曲を、あなたに捧げます」 「……ありがとう……」  器用な長い指が動いて、片手が弦を抑え、もう片方の手が弦を弾く。ゆっくりと奏でられた美しい旋律は、レイヴの優しい歌声とともにサリヤの心を満たしていく。 (いつでも還ろう、心は故郷へと)  白い都、朝日に照らされて輝くというその故郷に、いつか私も行ってみたい。あなたと並んで朝日を見たい。この気持ちは何なのだろう、感じたことのないこの感覚は……。 (あなたと共に還ろう、我らが故郷へ)  この音と歌声は、きっと扉の外のファリーダとナハトにも聴こえているだろう。四人だけの秘密だということを嬉しく感じながら、サリヤはずっと、歌うレイヴの横顔を見つめ続けていた。     *    *    *    * 「やあ、ナハト殿!」 「……」  夜遅く。いつものようにレイヴが眠る部屋の扉の前で剣を抱えて座っていたナハトのもとへ、意外な人物がやって来た。いや、どこかで予感していたというべきか。 「寝ずの番かい? お疲れ様」 「……姫の護衛はどうした」 「うちには護衛隊員がいっぱいいるからね。何重にも取り囲んで、姫様のいる建物ごと守ってるよ」  だから、護衛隊長である自分がここにいられるのだとばかりに、褐色の肌のファリーダが誇らしげに笑った。その手には、謎のトレイを掲げている。 「何の用だ」 「見りゃわかんでしょ? 約束通り、お茶しにきたよん」 「何……?」 「はいはいっと。隣失礼しますよ~」 「おい」  がちゃがちゃと音を立てて運んできたトレイには、確かにティーポットとカップや砂糖壺らしきものが並んでいる。図々しくナハトの隣に座り込んだファリーダが、慣れた手付きで勝手に茶を淹れ始める。 「何をしている?」 「だからー、お茶の準備だって。ハーブティーをユーリアが準備してくれたのさ」 「誰だそれは」 「いつも案内してくれる侍女ちゃんがいるでしょーが。まったく、本当に王子様のことしか頭にないんだねえ……よし、OK」  入ったよ、とハーブティーがなみなみ注がれたカップを渡されて、反射的に受け取ってしまう。(なんなんだ……)こいつは一体。確かにそう言えばこの前、今度一緒にお茶でもしようなどと勝手に口走っていた気がするが、まさか本当に夜更けにやって来るとは。呆れて声も出ないナハトの前で、ファリーダがカップを口にする。 「んー。美味しい。ぼくのはブランデー垂らしてるけど、あんたのはお茶だけだから安心しなよ」 「……」  確かに喉は乾いていたので、こく、と一口含むと、ほっとするような柔らかい風味が広がった。(美味い……)砂漠でも、これほど上質な茶葉が手に入るのか。ごくん、ともう一口飲むと、隣のファリーダが満足そうに大きな目を細めてにかっと笑った。そうすると、本当に少年のようだ。 「どう? 美味しいでしょ。疲れが取れる効果があるんだってさ」  一応彼は彼なりに、一人でレイヴを警護するナハトを気遣っている、ということなのだろうか。(どんな男、なんだ……?)意図が読めずにナハトが黙っていると、整った顔立ちの若き護衛隊長がふう、と息を吐いた。 「……話、姫様から聞いたよ」 「……?」 「あんたのとこの王子様が、今の身体になった理由。……ひどい話だね」 「……ああ……」  レイヴが毒を盛られた時、ナハトは十六歳だった。まだ騎士として認められてもおらず、幼い頃のようにそばにはついていられなかった。昏睡状態から目覚めるまでの三週間は、毎朝晩大聖堂に通って神に祈った。どうか、レイヴ様をお助けください。あの方の命をお救いください。その願いは、中途半端な形で叶えられた。 (ナハト……? ナハト、どこにいるの……?) (レイヴ様……目が……!?)  レイヴが視力を、それも永遠に失ったと知った時。どれほど身代わりになってやりたかったか。どれほどこの身を差し出したかったか。悔やんでも悔やみきれない過去を想ってナハトが暗い顔になると、隣のファリーダが呟いた。 「……おたくの王子様は、とても、強い人だね。強くて、優しい方だ……」  この異様なまでに陽気な男が、レイヴを褒めるとは思ってもいなかったナハトは、まじまじとファリーダの横顔を見つめた。その表情は真剣そのもので、決して茶化しても、皮肉でもないのだとわかった。 (強くて、優しい……)そう、それが、レイヴそのものだ。ただの一度さえ弱音も、自らの運命への呪詛も吐かなかった我が主君。ありのままを受け入れ、努力し、立ち向かうことを選んだレイヴは、どんな騎士よりも強かった。 「……そうだ。レイヴ様は、お強い……私などよりも、ずっと……」 「きっと、あんたがいたからだよ。いい関係なんだね」 「……」  何故この男に、それがわかるのだろう。自分とレイヴの絆が。この世に唯一人、この方しかいないと心から仕える気持ちが、ファリーダにもわかるということだろうか。 「少しは、寝たほうが良いよ。この離れにだって、警備はついてるんだからさ」  そう言ってくい、とカップを空にしたファリーダは、「またね」と立ち上がって、意外なほどあっさりと帰っていった。何もそんなにすぐにいなくならなくても、と思ってしまった自分が妙で、落ち着かない気分になるナハトだった。
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