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「おや? 少し早かったですかね」
あまり聞き慣れない声にファリーダが振り返ると、そこには金髪の美しい貴族が青い衣を纏い、護衛とともに佇んでいた。サリヤの求婚者のひとり、シドラ国のキールスだ。
「いいえ、時間通りですよ。前の面会がちょっと長引いてまして」
「ほう? レイヴ殿とですか」
その通りだ。本来二十分は前に終わっているはずのサリヤとレイヴの面会はまだ続いており、出てくる気配がない。侍女ユーリアが「様子を見てまいります」と言って、ノックをして扉の向こうに消えると、その場にはレイヴを守るナハトとサリヤを守るファリーダ、そしてキールスと彼の護衛だけになった。
「そういえば、きちんとお話するのは初めてですね。護衛隊長どの」
「まあ、ぼくなんて姫様のおまけですからねえ」
ファリーダがいつもの調子で肩をすくめると、ナハトは黙ってそれを見やり、キールスがいえいえ、と首を振った。
「そんなことはないでしょう。その若さで護衛隊長を務めるだなんて、相当な腕をお持ちのようだ……きっと、由緒ある家柄のご出身なのでしょうね」
「いいえ。孤児あがりのど平民ですよ」
ありのままの真実をファリーダが口にすると、「それは……大変失礼しました」とキールスがやや動揺した様子を見せた。まさかそんな返答がくるとは思ってもいなかったという表情に、ファリーダは内心目を細める。
(ふうん……)こういうタイプか。悪気はないのだろうが、絹のおくるみに包まれて産まれて来て、銀の匙でしかものを食べたことがない生粋の貴族なのだろう。ファリーダは特に気を悪くした素振りは見せずに、長い褐色の腕を組んだ。ナハトがちらりとこちらを見るのを感じながら続ける。
「別に失礼じゃありませんよ。本当のことですから……ユーリア、どうだった?」
「すぐにレイヴ様がお出になります。お待たせして申し訳ございません、キールス様」
「いえ、私はいくらでも待ちますよ」
穏やかな人柄らしいキールスは、杖をついてやっと出てきたレイヴにも丁寧に礼を交わし、ナハトを伴って去っていくその後姿を見つめた。そうして、ぽつりと口を開く。
「お可哀そうに……目が不自由だなんて」
「……それは、あなたが決めることじゃあないんじゃないですかね」
「え?」
「いいえ何でも。姫様がお待ちですよ、どうぞ」
ファリーダが扉を開けると、華やかな美貌のキールスはどうも、と言って中に入っていった。(……)なぜあんなことを言い返してしまったんだろう。自分らしくもないが、けれど本心であることは確かだった。
(だって、さ……)
レイヴは決して、よく知らない他人から憐れまれるような存在ではない。気高く、心の強い青年だ。だからこそあの堅物のナハトも寡黙に付き従い、彼を守り通しているのだろう。自分はそれを知っている、おそらくサリヤも。それでいいのだと思いながら、ファリーダはナハトの鼻の高い横顔を思い出していた。なぜ彼のことが妙に気になるのか、説明はまだつけられなかった。
* * * *
「ごほ……っ、ごほ、……はぁ……」
離れに戻るなり咳込んだレイヴの背中をさすり、ナハトは水差しから水を汲んで主君の唇にそっとグラスを押し当てた。こくん、と飲みくだし、少しは落ち着いた様子を確かめてグラスを離す。
「はぁ……はあ、……少し、外に長くいすぎたかな……」
「……そのようですね」
レイヴを長椅子に座らせて、杖を受け取って傍らに立てかける。レイヴの亜麻色の長い睫毛が震える。今日は妙に気温が低く、サリヤ姫と面会していた部屋が寒かったのだろうと思われた。それにしても、面会の時間はやけに長かった。
「殿下とは……どのような、お話を?」
詮索するのは好きではないが、少し気になってナハトが尋ねると、レイヴはふ、と笑って、くすくすと思い出し笑いを見せた。ほころぶ笑顔が嬉しくて、ナハトの心もわずかに和む。きっと、楽しい面会だったのだろう。
「それが、ね。……サリヤ姫の、一度きりの航海の冒険譚を聞いていたんだ」
そうしたら長くなってしまってね。そう言って、レイヴはくすくすと笑ってナハトの手に手を重ねた。
「双子の兄の、サッヤード様が”赤い悪魔”という海賊に攫われてしまって……なんとかあのお父上を説得して、サリヤ姫もじきじきに船に乗り込んで、追いかけたらしいんだよ」
「あの姫殿下が、ですか?」
「そう。凄いだろう? もちろんあの、ファリーダ殿という護衛隊長が一緒に行くのが条件だったらしいけれどね」
「……」
あの、ファリーダ。大きな目に少年のような顔立ちをした美しい男を思い浮かべ、ナハトは押し黙る。そうか、あいつも行ったのか。それはそうだろう、姫様の行くところならどこへでも、という男だ。自分と同じ、忠誠心を心の柱にしている男。
「それでね。何度も難破しそうになりながら、必死で海賊船を追いかけて……何と追いついたらしいんだ。それで姫がなんて言ったと思う?」
「さあ……」
「”私の名はサリヤだ、愚かな海賊め! 兄様を返してもらおう!”……だってさ。なんとも勇敢なことじゃないか」
「それは……凄いですね」
”赤い悪魔”の異名は、さすがに大陸の反対側であるワシュラまでは轟いていなかったが、調べてみれば有名な海賊だということはすぐにわかった。ほう、とナハトが息をつくと、興奮した様子で頬をバラ色に紅潮させてレイヴが続ける。
「素晴らしい勇気だよね。……そして兄君がサリヤ姫の船に乗り込む代わりに、あのファリーダ殿が自らすすんで人質になり、海賊船に乗り移ったそうだよ」
「……あの男が、ですか……?」
単身ただひとり、武器も捨てて、海賊船に人質として乗り込んだのだとレイヴは語る。いや、サリヤがそう語ったのか。(あいつ……)あのひたすら軽薄そうな、陽気でよく喋る男が。いくら腕に覚えがあっても、誰にでもできることではない。
「そのおかげで、姫と兄君はふたりきりで、最後のお別れの話ができたそうだ」
「……」
「姫が姫なら、騎士も騎士だね。すごい物語だったよ」
そこまで言ってから、ふう、と話し疲れたようにレイヴが息を吐いたので、ナハトは黙って彼の細い肩に外套をかけた。痩せた手が、しっかりとナハトの手を握る。
「……サリヤ姫は、素敵な方だね。誰を選んだとしても、お幸せになっていただきたいよ……」
その言葉の裏には、自分は決して選ばれはしないだろう、選ばれるべきではないというレイヴの気持ちが透けて聴こえて、ナハトは言葉を見つけられなかった。こんな時、あの陽気なよく喋る男なら何と言っただろう。ナハトが思っていたよりもずっと勇敢だったらしいあの黒髪の護衛隊長を思い、ナハトは目を伏せた。
* * * *
兄様、元気でやっているかな。今頃、虹の都には到着したのだろうか? 海賊の皆はどうだろうか。こちらは元気だと伝えてくれとファリーダがうるさいんだ。
私は突然、三人もの求婚者と同時に見合いをすることになって、とても戸惑っている。父様は何を考えているのか知らないが、世界中からかきあつめた候補者の中から、婿に来てもいいという人を三人選んで、今彼らと毎日面会を続けているんだ。三人だぞ。一人でも二人でもなく、一度に三人。こんなのってあるだろうか。
ひとりは、とても美しい金髪の貴族だ。いつも青い衣を纏っていて、退屈だが害のない話をする男だ。いかにも育ちの良いお坊ちゃんという感じで、猫をかぶって話をするのもそろそろ疲れてきた。まあ、悪い男ではなさそうだ。
もうひとりは、象に乗ってやってきたんだ。兄様、旅の中でもう象は見た? とても大きくて立派な、偉大な生き物だ。私達と同じような肌の色をして、ターバンを巻いた陽気な男で、私をよく笑わせてくれるし、気も使ってくれる。彼も悪い男じゃないと思う。少し、ファリーダに似てるといえばわかりやすいだろうか。
でも問題は、最後のひとりなんだ。兄様。私はこのひとを表す言葉を知らない。なんと書けばいいだろう。どんなふうに表現すれば、このひとのことを兄様に伝えられるだろうとずっと考えていても、いい言葉が思い浮かばないんだ。
優しいひとだと、書くのは簡単だ。強いひとだとも、書くことはできる。でもそんな簡単な言葉で、この気持ちが伝わるだろうか。あのひとの本当の価値を兄様にわかってもらえるだろうか。この、彼のことを思い出すたびに感じる、今までにない感情のことも。
そうだ、名前を教えよう。レイヴ殿、というのだ。こうして名前を書くだけでもなぜか手が震えそうになる。胸がいっぱいになる。
私はいったい、どうしてしまったんだと思う? 兄様、答えを知っているなら教えてくれ。私は、恋をしてしまったんだろうか。こんな想いははじめてなんだ。彼と話していると時間があっという間で、時が止まってしまえばいいと思う。面会が終わると寂しくて、早く明日になればいいと思うんだ。
そのひとは目が見えないから、私の容姿のことを知らない。私がどんな目で彼を見つめているかも知らない。それでも、声を聞くだけで胸が高鳴るんだ。もっと一緒にいたい、もっと彼のことを知りたいと思うんだ。他の人とは違うんだ。
兄様。あのひとの長い髪は、色は違うけれど兄様を思い出させる。兄様とふたり、こっそり中庭に隠れて遊んだ頃のことを思い出すんだ。その時以来忘れてしまっていた、優しい気持ちになれるんだ。兄様、私はどうすればいいだろう。
あのひとはきっと、私に愛しているとは言わないだろう。控えめで欲のないひとなんだ。大切なものを奪われたのに、もっと差し出してしまうようなひとなんだ。
私は生まれてはじめて、どうしたらいいかわからない。兄様がいてくれたらいいのにと思う。でも私達の心は、繋がっているよね。あのひとがそう言ってくれた。
ああ、予定よりずっと長い手紙になってしまった。こんなに言葉を尽くしても、レイヴ殿のことはやっぱりうまく説明できなかった。兄様も、ロルカのことを私に詳しく話さなかったのは、きっと話す言葉をもってなかったからかもしれないな。
とにかく、これを読んだら、私と祖国のことを少しは思い出してくれると嬉しい。いつだって、兄様の幸せを願ってる。また手紙を書いてくれ。
いつまでも兄様を愛する サリヤより
* * * *
「……」
いつもより早く、疲れたように眠るサリヤの傍らで、ファリーダは書き終えられたばかりの手紙を読み終わった。
これを兄のサッヤードに届けるはずの鷹のアイーシャはまだ到着していないから、飛んできてから折りたたもうと思っていたのだろう。テーブルの上に無造作に置かれていたその手紙には、彼女の秘めた恋心がしっかりと書かれていた。
(姫様……)
ファリーダにとって、サリヤはこの世界でもっとも勇敢で賢く、美しい大切な宝石だった。気高く凛々しく、決して迷うことも悩むこともない。こうと決めたら動かず、気位が高くて、けれど幼いものや弱いものにはとても優しい。それがサリヤだった。何者も恐れない高潔な姫君、誰の手も届かない大輪の花、それが、今は。
(恋、か……)
いつかこんな日が、来るかもしれないとは思っていたけれど。ファリーダにとって崇拝と憧憬の対象ではあっても、恋心の行く先ではないサリヤだが、それでも動揺は隠せない。あのサリヤが、恋を。それも目が見えず、身体も弱い、一見すると最も最後尾にいる候補者のレイヴに……。そう思う一方で、そうなる運命なのだろうとも思えた。あの歌声を、ファリーダも扉のこちらがわで聴いてしまったから。
「……」
そっと、テーブルに突っ伏して眠ってしまったサリヤを抱きかかえて寝台へ連れて行く。いじらしい恋心を綴った手紙を遠い旅をする兄に書くことでしか表せない、そんな姫が愛おしかった。静かに寝台に横たえて、滲んだ涙の痕を拭ってやる。
「姫様は?」
「眠ってしまわれたよ。しばらくは起こさないであげてよ」
サリヤの部屋の外に出ると、忠実な侍女ユーリアが待っていた。彼女もきっと気づいているだろう、サリヤの変化に。「姫様が、恋かあ……」ぽつりと呟くと、あらようやくわかったの、とばかりに眉を上げた。
「恋って、なんだろうね? 姫様も、自覚したばかりみたいだけど」
「あら、あなたは? ファリーダ様、恋をしたことはないの?」
「……」
ずばり問われて、ファリーダは非常に珍しいことに一瞬押し黙ってしまった。軽薄、饒舌、陽気が売りの護衛隊長らしくもないことだった。そして何より、問われた時にレイヴの傍らに佇む、あの無口な男の顔が浮かんでしまったことも不本意で。
「……ぼくは自由な独り身がいいよ、まだ今のところは、ね」
そう。恋なんて、ぼくには縁がない。きっと、今までの自分のペースが通じきらないから、あいつが気になるだけだ。そう自分に言い聞かせて、あの決して笑わない男のことは忘れようと、頬を膨らませるファリーダだった。
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