愛に降る雪

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「乾杯」  かちん、とファリーダがカップを合わせて音を鳴らすと、ナハトは黙ってそれを受け入れた。夜の番で扉の前に座る彼のもとへ、お茶を届けるのも日課に近くなっていた。今はもう、最初の頃のように迷惑そうな顔はされない。 「ふう……ああ、美味しい」 「……そうだな」  無口そのものだったナハトも、少しは口をきいてくれるようになり、それがファリーダには嬉しかった。会話を交わすうちに、少しずつこの白い騎士の人間性がわかるような気がして。と、ナハトがカップを持たない方の手を伸ばしてきた。 「? なに」 「……ついていた」 「ああ……」  驚いて身を引くファリーダの黒髪から、白い花びらを取ってくれる。(これか……)昼間、レイヴにあげるのだと言って花冠を編んでいたサリヤに、試しにかぶってみてくれと言われて何度かかぶった、その時に落ちた花びらだろう。 「姫様が、ね。ほら、花冠編んでたでしょう、それをかぶらされたの」 「ああ……」 「似合っていたよね、レイヴ様」 「……お前も、よく似合っただろうな」 (な……)なんでいきなり、そんなことを言うの。突然甘い言葉を囁かれてファリーダはどぎまぎと戸惑うことしか出来ない。平然としているナハトがまた紅茶を口に含み、こくんと飲み下してから、ぽつりと言った。 「……お前は……実の親を、知らないのか」  何故急にそんなことを言い出したのかわからなかったが、「そうだよ。顔も名前も知らない」と答えると、そうか、とまた呟くように答える。もしかしたら彼なりに、ファリーダの生い立ちに想いをはせてくれているのかもしれない。 「名前は、ぼくを拾った教会の司祭がつけたんだ。まあその人も、すぐに死んじゃったけどね」 「……」  過去のことを振り返る趣味はない。過酷だったからこそ、思い出したくもないこともたくさんある。いつまでも少年のようだと言われるのは、教養がないという意味かと悩んだこともあったが、今ではもう気にしなかった。自分は自分、それでいいのだとサリヤが認めてくれたから。けれどそんなファリーダに向き合って、ナハトは言う。 「……今まで、よく頑張ってきたな。私は、お前を尊敬する」 「……っ」 (なんで……)そんなふうに言ってくれた人は、今までいなかった。サリヤでさえ。どうして、あんたにそんなことが言えるんだ。堅物で鉄仮面みたいな、無口な騎士のはずなのに……泣き出しそうになってファリーダがそっと顔を伏せると、ナハトはそれ以上何も言わなかった。 (どうして)  こんなに、ドキドキと胸が高鳴るの。こんな気持ちは初めてだった。彼の秘められた優しさに触れ、尊敬するとまで言われて、ファリーダの心は乱れた。(落ち着け……)落ち着くんだ。彼はただの、姫の求婚者の護衛にすぎないんだから。 「……あんたは? その……故郷には、家族がいるんだよね?」 「……」 「それとも、恋人? 結婚は……してるの?」  ぼくは一体、何を聞いてるんだ。そんなことどうでもいいし、自分にも任務にも一切関係ないはずなのに。どうか恋人などいないと言ってほしいと願いながらさり気なく尋ねると、しばらく黙ってからナハトが答えた。 「……結婚していた、ことはある」 「え……」  ずきんと、胸が傷んだ。(それって……)過去形の言い方に、まずいことを訊いてしまったとすぐに察したが、止めるまもなくナハトが続けた。 「一年ほどの間だ。親の定めた許嫁と結婚して……すぐに病に倒れ、亡くなった」 「……っ」  そう、だったんだ。自分でも驚くほど、ショックを受けていることにファリーダは気づいた。(してた、んだ……)堅物だと思っていたナハトの過去を知り、何も言うことが出来ないままのファリーダの隣で、ナハトは自嘲気味に呟く。 「……私は彼女に、何もしてやれなかった」 「ナハト……」 「お前のような、明るい男ならよかっただろうに……私はいつも、任務ばかりで……」  ろくに家にもいなかった。最期を看取れたのはレイヴのはからいだったとナハトは語った。(そうか……)彼は、不器用なのだ。感情をうまく表せないし、一度に多くのことはできないのだろう。彼にとってはレイヴが第一で、妻となった女性を愛する前に失ってしまったことを、深く悔やんでいることが伝わってきた。 「……ねえ、そんなことはないよ」  知りもしないのに、と言われるのを承知で、ファリーダは囁いた。どうにかして、彼に元気を出してほしかった。沈んだ顔をされると、なぜか自分の胸も痛む。たった一度でいい、ナハトの笑顔が見たかった。彼が笑ってくれるなら、なんだってしたいと思った。どうしてかは、わからないままに。 「あんたはあんただ。本当は優しいじゃないか……奥様はきっと、幸せだったよ」 「……」  ファリーダが言うと、ナハトがかすかに目を見張った。いつもこわばっている顔がほどけて、そして。 「……ありがとう。そう言ってもらえると、少しは救われるな……」  初めて見せた、ほんのわずかな笑顔。それが目に焼き付いて、ファリーダの頭の中から、ずっとずっと消えなかった。     *    *    *    *  「ほんとうは象に乗せてもらいたいのに、父様はいじわるだ!」 「はは……まあ、陛下のお考えですからねえ」    サリヤが言うと、東の離れで面会を交わすタントレアのクレイ公子が笑った。水浴びをする象を間近で見ることはできたが、乗るのはだめだと言われて憤慨するサリヤを、おっとりとなだめる仕草はどこか中性的だった。  天蓋のある東屋で、砂漠の砂っぽい風に吹かれながら彼の故郷のお茶を飲み、二人は会話を交わす。この頃には、彼に対してはサリヤも地を見せるようになっていた。すると、クレイがガラスのコップをカチャリと置いて口を開く。 「……あのね、サリヤ様。ここだけの話……私は辞退して、帰ろうと思うんです」 「え……?」  ふ、と微笑むクレイ。(辞退……?)それはつまり、求婚を取り下げて、タントレア公国に帰るということだ。驚いてサリヤが見つめると、クレイが続けた。 「正直なところ……ここには、自分の心を確かめに来たんです」 「心?」 「ええ……実は、私は……男性のほうが、女性よりも好きなようなんです」 「!」  驚きの事実を伝えられて、サリヤは目を見張った。(クレイ殿……)ならばなぜ、この見合いに参加したのか。その想いが表情に出たのか、クレイが説明する。 「けれど祖国は、女性と結婚することを私に求めました。それで……砂漠の宝石と名高い、あなたなら……」 「愛せるかもしれないと、思って?」 「ええ。本当に申し訳ありません……実際、あなたは素晴らしい方だ。でも……」  でも、と言って、クレイは遠い目をした。その視線のさきには、サリヤを護衛するために周囲を警戒しながら佇む、若きファリーダの姿があった。 「私はやはり、女性は愛せないようです。もう、十分です」 「……そうか……」 「自分が何者か、よくわかりました。これからは自分に正直に生きようと思います」  にこ、と微笑んで、クレイはグラスのお茶を飲んだ。(そうか……)私のほうがふられるということも、あるのだな。奇妙にそれがおかしくて、サリヤは微笑み返す。出逢ってから、もっとも彼に好感を抱いた瞬間だった。 「では、これからもいい友人でいてくれるか? クレイ殿」 「ええ、勿論。面会は、これで最後にいたしましょう。さようなら、サリヤ姫……あなたもどうか、お心のままに」 「……さようなら、クレイ殿」  荷物をまとめて王に挨拶したら明日の早朝には発つ、と告げるクレイとの面会は、静かで穏やかに終わった。肩の荷がひとつ降りたような、拍子抜けなような、不思議な気分だった。     *    *    *    *  その夜は、妙に静かだった。早番だったファリーダは、なかなか寝付けずに寝台でごろごろと寝返りを打ってばかりいた。 (ありがとう)  あの笑顔が、頭から離れない。鋭い緑の瞳が弧を描いて、薄い唇が微笑みの形になった。それを思い出すだけで、鼓動が高鳴って止まらない。 (なんなんだ……)  これは、一体なんなんだ。何度も目を閉じて眠ろうとしても、ナハトと交わした今までの会話や、昨夜のことを思い出してしまう。あんな堅物、相容れないと思っていたのに。今ではナハトの鼻の高い横顔や、花びらを取ってくれた長い指、そしてあの落ち着いた声を、何度も頭の中で反芻してしまう。 (ナハト……)  逢いに、行こうか。きっと今夜も、レイヴの寝室の前で剣を抱えて番をしているに違いない。行ったら、また笑ってくれるだろうか。今度はどんな話をしてくれるんだろう。ナハト、逢いたい。逢いたいよ。この気持ちは、なんなの。ぎゅっと、ファリーダが枕を抱きしめた時。突然、寝室の扉が開いた。 「隊長(キャプテン)! 大変です、すぐにいらしてください!」 「何事だ!」    飛び込んできた護衛隊員に、すぐに飛び起きて尋ねると、隊員が顔を寄せて耳打ちした。信じがたい知らせを。 「……クレイ様が……!?」  聞き終わるなり、ファリーダはすぐに身支度を整え、大剣を担いで部屋を飛び出した。頭の片隅に、まだあの銀髪を想いながら。     *    *    *    * 「……?」  寝ずの番でレイヴの寝室の前に座っていたナハトが顔を上げると、そこには見覚えのない侍女が、紅茶のトレイを手に立っていた。(なんだ……)あの男では、ないのか。少なからず落胆して立ち上がると、青ざめた侍女がトレイを差し出した。 「……サリヤ殿下より、差し入れでございます。よく眠れるお茶です」 「姫から?」 「はい。レイヴ様への……」 「そうか。私が運ぼう」  トレイを受け取り、肩で扉を押して振り返ると、侍女はもう廊下の向こうへ立ち去るところだった。どこか胸騒ぎを感じながら部屋の中に入ると、レイヴはまだ眠ってはいないようだった。寝台で半身を起こし、見えない目をぱちぱちとさせてこちらを向いている。 「ナハト?」 「ええ。サリヤ姫からの贈り物です。よく眠れるお茶だとか」 「そう……お優しい方だね、やっぱり」  ふふ、と微笑むその頬は、やはり上気していて、彼の秘めたる恋心を知らせる。叶わぬ想いだと感じているのだろうか、本人に告げる気はないようだったが。 「お飲みになりますか?」 「そうだね、少しいただこうか」  レイヴの分と、その前に毒味する用に自分の分をティーカップに注いでいく。すると、レイヴがぽつりと呟いた。 「物音がしたから、ファリーダ殿かと思ったんだけど。違ったんだね」 「……はい。あの男ではありませんでした」 「あの男、なんて言い方はよくないね。ナハト、好きなんでしょう?」 「……ッ」  がちゃん、とらしくもなく手が滑り、レイヴの分のカップから紅茶が溢れた。(な……)何を、おっしゃるのか。この方は。 「な、何を……」 「声でわかるよ。二人の会話、私が聴こえてないとでも思った?」 「……それは……大変失礼しました、お騒がせを……」  そうだった。この主君は、目が見えないかわりに大変に耳が良い。分厚い扉の向こう側で自分たちが交わしていた夜毎の会話を、もしかしたらすべて……? 「今日だって、来てほしかったんじゃないの? 彼といるときのナハトは、最近とても安らいだ声をしていたよ。彼と話すのが、楽しいんでしょう」 「……は、いえ……」 「ごまかさなくていいよ。私にはわかるから」 「……」  もう、言葉もなかった。そうだ、私はあの男が来るのを、楽しみにしている……。あの大きな目で見つめられるのを、あの陽気な声を、突拍子もつかない言葉の数々を。  ファリーダ、お前は美しい……そう言いたくても言えないまま、彼が訪ねてきてくれるのを待っていた。あの長い、黒々とした濃い睫毛がまたたくのを、肉感的な唇が動くのを、見つめていたかった。それを自覚して、かすかに震える手でカップを手にする。 「私には……レイヴ様がすべてです」 「必ずしもそれは、良いことではないよ。ナハト……」  主君の声を聞きながら、サリヤが差し入れてくれた紅茶を飲んだ。ふくよかな香りがして、さすが姫の選んだ茶葉だと感心し、レイヴの分を入れ直そうとした時。 「……?」  ぐらり、と視界が歪んだ。大きな音を立ててポットが落ちる。「ナハト……!?」レイヴの声が、遠くに聴こえた。ああ。 (レイヴ、様を……)  お守り、しなければ。薄れゆく意識の中、あの黒髪の男の笑顔が浮かんだ。  
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