愛に降る雪

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「ファリーダ様。少しは休んでください。ろくに寝ていないでしょう」 「いいんだ」  看護師のジョゼに何度そう言われても、ファリーダは頑として毎夜ナハトの眠る部屋へ通うことをやめなかった。 (ファリーダ、お前も休め。今回のことは、お前のせいではないのだから)  そんなことをサリヤも言ったが、ごめんなさい姫様、それはできませんと答え、日中の事件処理も手を休めず、夜にはナハトの枕元に座り込んで彼が目を覚ますか、あるいは容態が急変しないかを見守った。そうせずにはいられなかった。 「ナハト……」  致死量の毒を盛られ、左肩と右足に大きな傷を負ったナハトは、事件の夜に意識を失ってから一度も目を覚まさなかった。あれからもう三日が経つ。ファリーダはその間、護衛隊長として事件の責任を一手に背負い、あの夜何が起こったかを解明することに全力を尽くした。 「逃げていた刺客が、捕まったよ。全部吐いた……キールスの仕業だったんだ」  眠り続ける、意識のないナハトに語りかける。そう、今回の襲撃事件はすべて、シドラ国では王族になれないキールスが、確実にサリヤを娶り、やがてはアステアを乗っ取ろうと企てた恐るべき陰謀だった。クレイも召使いたちも、ナハトもレイヴも、そのために襲われた。キールスを襲った刺客は自作自演だったのだ。 「キールスは拘束して、強制送還することになった。連邦裁判にかけられるから……たぶん、極刑は免れないだろうね」  なぜそこまでして、大貴族の彼が王位にこだわったのかは謎に包まれている。だが、何もかも持っているように見えるからこそ、決して手に入らないものが欲しくなるのかもしれない。理解は出来ないが、とにかく事件は落着した。 「クレイ様は、なんとか助かったよ……だからナハト、早く目を覚ましてよ……」  語りかけても、何の反応もないことが心細くなって、ファリーダはぐっと涙をこらえた。(ナハト……)ああ、彼のために、どれだけ涙を流せばいいのだろう。  ナハト、あんたを失いたくないんだ。ようやく気づいた自分の心に向き合う前に、あんたがいなくなっちまったら意味がないじゃないか……。俯いたファリーダは、はあ、と小さくため息をついた。気を抜いたら、意識を失いそうなほど疲れている。 「……」  ナハト。生真面目で言葉が少なくて、美しい姿をした白い騎士。辛い過去を抱えて、それでも強くあろうとし続け、主君を守るために命がけで戦った男。黙ってその青ざめた寝顔を見つめていると、胸が苦しくなる。何寝てるんだよ、と叫んで、胸ぐらをつかんで叩き起こしたくなる。そんなことはとてもできないのに。 (ああ……)  ファリーダにとって、もうずっと長いこと、サリヤがすべてだった。今までは……なのに、この気持ちはなんなのかわからず悩んでいた。今はもう、わかる。きっとこれが、初めての恋なんだ。それなのに、あんたはいってしまうの。 「……起きてよ、ナハト……」  泣き出しそうな気分で、ナハトの銀髪をひとすじなぞった。溶けて消えてしまいそうな、雪のように儚いその銀色が、心の底から愛おしかった。なのに愛する男は、目覚める気配もなかった。     *    *    *    * 「……アイーシャ!」  長旅からアステアに戻ってきた鷹のアイーシャが、サリヤの部屋の窓枠にとまった。「手紙、手紙は……あった!」その脚には、いつもどおり兄サッヤードからのものだろう、手紙がくくりつけてあった。急いで開くと、そこには。 【 愛するサリヤへ    それは恋だよ。幸せにおなり          サッヤードより 】 「……!」今までで一番短く、一番想いのこもった手紙だった。(恋……)やはりそうなのか、すでに海賊との恋を経験した兄の言葉は、ずしりとサリヤの胸に残った。 (兄様……)きっと慌ただしい中で、これだけ書いて返してくれたのだろう。真紅の海賊船の上からこちらを見ていた、別れを告げた兄の顔を思い出す。 「……殿下。レイヴ様がお越しです」 「!」  侍女ユーリアの声で、はっと我に返る。「通して」答えて、滲んだ涙を拭って手紙を引き出しにしまう。軽く身支度を整え終わった頃、ゆっくりと部屋の扉が開いた。亜麻色の長い髪の、透き通るように美しいひとが姿を見せる。 「レイヴ殿……」 「……こんにちは。サリヤ殿下」  レイヴはあの夜の襲撃と、忠実な部下が今も目覚めないことの心労からか、明らかにやつれた様子だった。手を引いて、一緒に長椅子に座る。 「レイヴ殿、お身体はどう? 何か困ったことはないか」 「私は、大丈夫です……ナハトはまだ、目覚めませんが……」 「本当に、すまなかった。わが国の落ち度だ」 「いいえ、……ファリーダ隊長が、私とナハトを助けてくれました」  どうかお気になさらないでください、と言いながら、レイヴの表情は晴れない。どうしたのだろうと胸騒ぎがした。そっと、膝の上に置かれた彼の手に手を重ねる。 「レイヴ殿……? 何か、言いたいことがあるなら言ってほしい」 「……殿下……私は……」  唇が、かすかに震えるのが見える。サリヤは自分がひどく不安そうな表情になっていることに気づいていたが、どうしようもできない。(レイヴ殿……)あなたはいったい、何を言おうというの。 「……私は、……あなたを、愛しています……」 「……!」 「けれど今回のことで、改めてよくわかりました……盲目で非力な私は、あなたにふさわしくない……私は、国に帰ります」 「な……っ」  何を、言うんだ。あまりに突然の別れに、サリヤの胸はずきんと傷んだ。レイヴもまた深く傷ついた顔をして、サリヤの手に更にもう片方の手を重ねた。 「さようなら、サリヤ殿下……どうか、お幸せになってください」 「ま……っ、待って、待ってくれ!」  そう言って手を離し、杖を持って立ち上がろうとするレイヴを思わず引き止めた。(嫌だ……!)今止めなければ、彼は行ってしまう。きっと永遠に、もう二度と逢えない。そんなのは、そんなのはもう、嫌なんだ。 「殿下……?」 「私は……私は、あなたがいい。あなたと結ばれたい……!」 「……!」  すがる思いで叫ぶと、立ち上がりかけたレイヴが驚いた顔をしてふたたび腰を下ろした。そっとその手を取って、サリヤは自分の頬に当てた。泣いていることが、伝わるように。ここにいることが、あなたを愛していることが、指先から、手のひらから届くように。 「愛してるんだ、レイヴ殿……こんな気持ちにさせて、行ってしまうなんてひどすぎる……!」 「殿下……しかし、私では……」 「私があなたを守る。あなたは私の宝物だ、私の運命なんだ。行かないで……!」 「……っ」  泣きながらサリヤが訴えると、震える手をそっと頬に当てたまま、レイヴが眉を寄せた。その見えない瞳から、ひとすじの涙が流れる。ああ。 「……殿下……サリヤ、と、呼んでも……?」 「……それもいいが、別の名前がある……アステアの王族は、伴侶にしか知らせない真の名を持ってるんだ」 「……」  頬に当てていた手を下ろし、お互いの両手を固く繋いで。もうどこにもいかないでほしいと願いながら、サリヤは愛するひとに、本当の名前を知らせた。 「私の名は……シヴァナリア。シヴァナリア・サリヤだ……」 「シヴァナリア……愛しています、心から……」  産まれて初めて、両親以外からそう呼ばれて。サリヤは耐えきれずにまた涙を零しながら、レイヴを見つめた。この世でただひとり愛する、レイヴだけを。 「レイヴ、愛してる……私と、結婚して……!」 「はい……!」  ひしと抱き合えば、永遠が見える気がした。(おまえったら、逆プロポーズ?)なんて笑うだろう、遠く離れた兄の顔が浮かんだ。兄様、私は、この強く優しいひとと幸せになるよ。初めて交わすくちづけは、涙の味がした。     *    *    *    * 「……」  ゆっくりと、ナハトは目を覚ます。ぼんやりと意識が浮かび上がり、視界が開けていく。(ここは……?)知らない部屋に寝かされている事に気づいて、ナハトはしばらく状況が読めずにいた。 (私は、一体……)  何が起きたのか。少しずつ思い出し、起き上がろうとして身体が思うように動かない事を知る。(ああ……)そうだ。私は、あの夜に死神を見たのだ。そして……。 「! ナハト様、目が覚めました!?」 「……」  部屋に入ってきた看護師らしい若者が、慌てて駆け寄ってきて瞳を見つめる。そしてナハトの目の前に、指を三本突き立てた。 「意識ははっきりしてますね、これは何本ですか?」 「三本、だ……」 「ああ、よかった……! ファリーダ様を呼んできますね!」 「……ファリーダ……?」  懐かしくさえある名前を聞いて、しかしなぜ医者でなく彼なのだろうと聞き返すと、後にジョゼという名前だとわかる看護師は嬉しそうに言った。 「あの方、毎晩あなたにつきっきりだったんですよ……すぐに呼んできます!」 「……っ」  そうだった、のか。(毎晩……?)あの男が、きっと大事件の後始末で忙しいだろうに、自分の枕元についていたというのはにわかに想像できなかった。だが、ファリーダが勢いよく飛び込んできて、目覚めた自分を見てはっと息を飲んだその表情を見て、すべての謎は解けた。 「……ナハト……もう、平気、なの……?」  ゆっくりと近づいて、枕元にひざまずく、その瞳がじわじわと潤んでいく。宝石のようなその輝きに、ナハトは思わず見惚れた。 「もういいの……? あんた、助かったんだよね……!?」  自分の言葉に押されるように、ファリーダの大きな瞳からぽとりと、ひとしずくの涙がこぼれた。その瞬間に、悟った。自分が今一番逢いたかったのは、レイヴでも他の誰でもなく、彼だと。 「……ああ。どうやら、死神も退散したようだ」 「……ッ、よかっ、た……よかった……!」  泣きながら、ファリーダが怪我していない方のナハトの手を取った。ぎゅっと握りしめて顔の前に祈るように掲げ、ふるふると睫毛を震わせる。その瞳から溢れる涙を拭ってやりたいのに、身体が動かない。本当は、抱き寄せて慰めたいのに。もう泣かなくていいと、そう言ってやりたいのに、私は言葉が足りない……。 「長い夢から、覚めたようだ……事件は、どうなった……?」 「ああ、ちゃんと話すよ、全部……もう一度、最初っからね……」  ぐす、と鼻をすすりながら、笑うファリーダ。その笑顔が好きだと思った。笑った顔も、戦う時に見せた真剣な顔も、泣き顔もすべてが愛しかった。ファリーダ、お前は美しい。けれど言うべき言葉を見つけられずに、内心動揺しながらナハトは喋るファリーダを見つめた。 「まず、これだけは先に言わなくちゃね。姫様とレイヴ様が、婚約されたよ!」 「! ……本当に……?」 「うん。よかったでしょう、とってもお幸せそうだよ……」 「……ああ……」  よかった。はあ、と息を吐くと傷が痛み、頭ががんがんと鳴ったが、そんなことはもうどうでもよかった。ただあの方がご無事で、想いを遂げられた。そうして今、隣にはファリーダがいる。私は生きている。それでいい、もう十分だった。 (ファリーダ……)  お前が笑っている、それ以上のことは、何も望まない。涙を拭ってやることさえできない自分には、今のこの幸せで、不相応すぎるほどだとナハトは思った。
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