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俺がまだ小さかった頃、彼女がしてくれたことを覚えている。
その時、俺は飼っていた小さな犬が死んでとても落ち込んでいた。悲しくてあたりの使用人たちにも八つ当たりした。今考えればバカな行動だとわかるけど、当時はそれすらも気づかないほど落ち込んでいた。
そんな時に彼女は俺に言った。
「それでは、私が拓馬様の犬になります」
俺は驚いて、落ち込んでいたことも忘れて彼女をじっと見た。さらさらな薄茶色の髪も、宝石のように輝く青色の瞳も、綺麗に整えられた使用人の服も、どれも犬とは似ても似つかないので、どんな返事をすればいいのかわからなかったのだ。
すると彼女は俺の手を掴み、掌をうえに向かせた。そして床に膝をつくと、そのまま俺の掌の上に自分の掌を重ねた。
そしてにこりと笑って言った。
「わん」
「……え?」
「今のが『お手』です。拓馬様」
何を言っているのか、すぐに理解できなかった。だけどその状況に頭が追い付いた途端、驚いて手を引っ込めた。
「な、何してるんだ!」
「ですから、私が拓馬様の犬になりますと今言ったじゃないですか」
まさかそんなことをするとは思いもしなかった。
こいつは本当に頭がおかしいんじゃないかと、かなり本気で疑った。俺は彼女の雇い主である父の息子だ。当然お世話をしてくれと頼まれているだろうし、その分の給料は発生しているのだろう。
でもだからって、普通はここまでやらないだろう。
だけど彼女はそれからも、俺がもうやめてくれと言うまで、俺の犬になり続けた。『お手』も『お座り』も『待て』も。さすがにリードはつけなかったが、散歩も毎日行った。たぶん俺がリードをつけてくれと言っていたら、迷わずにつけてくれていただろう。
そんな彼女に、俺は一度気になって聞いたことがある。
「なあ、なんであんたはそんなに俺にかまってくれるんだ? 他の使用人たちみたいに、お世話だけしてればいいんじゃないか?」
すると彼女はやわらかい笑顔を浮かべて言った。
「旦那様に頼まれましたから。ずっと拓馬様の隣にいてほしいって。それにそれだけ他の使用人達よりお金も貰っていますから、私も他の人と同じような働きをしていたら叱られてしまいますよ」
その時、俺はいつも一緒にいてくれる彼女が、父親に頼まれたから一緒にいてくれるんだと、お金をもらっているから一緒にいてくれているんだと、少し寂しい気持ちになったことを覚えている。
だけど彼女は、そんな俺の気持ちをどう感じ取ったのか、両手をそっと握ってきた。
「大丈夫ですよ。私は何があっても拓馬様の側から離れませんから……」
その言葉で、よりいっそう俺が寂しい気持ちになったことに、彼女は気づいていたのだろうか。
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