君がいるから

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 そんな俺に、神は試練(しれん)を与えた。  ある日、いつものように仕事から帰ってきた彼女は、珍しく無言のまま扉を開けて家の中に入った。今まで一度も「ただいま戻りました」というのを欠かさなかった彼女が、初めてそれを言ってこなかったので俺は気になって彼女の方に耳を傾けていた。いつも俺がいる場所からは玄関(げんかん)は見えないのだ。  すると突然、ガシャンッと大きな音が聞こえた。俺は慌ててすぐに彼女のもとに駆け付けた。彼女は玄関の扉からすぐのところで、苦しそうに息を切らして倒れていた。 「お、おい。どうしたんだよ」  こんなこと今まで一度もなかったから、俺は(あせ)った。だから今まで苦労していたはずの、彼女へ声をかけることも無意識のうちにできていた。  だけど彼女は俺の言葉を聞き取れるような状態ではなかった。顔は赤いし、息も荒れてはあはあと苦しそうに息をしているし、なにより体が小刻(こきざ)みに震えているみたいだった。  俺はこのままじゃいけないと思って、いつも俺が体調を崩したときに彼女がしてくれたみたいに彼女を布団まで運んだ。だけど彼女の容態は少しもよくならない。 「この後はどうすればいいんだ……?」  思わず口にする。たぶん俺は、その言葉を聞いた彼女が、いつもみたいに元気に起きて俺に助言をしてくれることを期待してのだ。こんな状況でさえ彼女に頼ってしまう自分が恥ずかしかった。だけど彼女は起きるはずもない。  ふと、彼女はよく俺が病気になった時におでこをさわり、熱を(はか)っていたことを思い出した。俺はすぐに彼女の(ひたい)に手を置いた。 「あっつ!」  あまりの熱さに、驚いて手を放してしまった。俺は人の体温なんて測ったことがないからよくわからないけど、人間の額がこれほど熱くていいのだろうかと不安になった。そして不安になって、不覚(ふかく)にもこのまま彼女が死んでしまうのではないかと、そんなことを考えてしまった。  一度そんなことを考えてしまうと、それがずっと頭を離れなくなって、ぐるぐると頭をかき混ぜる。ずっとそばにいてくれた彼女がいなくなる。そう考えたらいてもたってもいられなくなって、家を飛び出した。  これはもう、俺の手に負える範疇(はんちゅう)を超えていると思った。  俺は外に出て、近くの家の人たちに助けを求めていった。俺はまだこんなに速く走ることができたのかと自分でも思うほどの全力疾走で、次々と彼女を助けてくれる人を求めて家を訪ねて回った。  だけど彼女を助けてくれる人はなかなか現れなかった。それでも俺は走り回った。そして隣町まで行ってようやく、彼女の様子を見てくれるという人が現れた。その人は医者だった。  医者は彼女を見ると、彼女に変な色の粉薬(こなぐすり)を飲ませた。それから氷で彼女の額を冷やし、閉め切っていた窓を開け、俺に彼女の口を(ふさ)いでおくようにと言った。俺は医者に言われたとおりにして、彼女の様子を見守った。するとほどなくして彼女の容態は良くなり、彼女は穏やかな寝息をたて始めた。  すると医者は、彼女に関する様々なことを尋ねてきた。普段は何をしているのか、どんな生活をしているのか、君とはどういった関係なのか。俺がその質問にすべて答えると、医者はしばらく考えた結果、彼女は働きすぎたのだと伝えてきた。 「おそらくずっと働き詰めで疲れが溜まっていたんでしょう。しばらく安静にして休ませてあげてください。そうすればすぐに元気になると思いますよ」  医者はそう言い残して家を出ていった。俺が代金を払おうとすると、医者は代金はいらないから自分のことを頑張りなさいと言った。  医者を見送り、そして静かに寝ている彼女の隣に座る。彼女が倒れたのは俺のせいだと理解していた。朝早くから起きて俺の世話をして、遅くまで仕事をしてそこからまた俺の世話をする。どう考えても働きすぎだった。おそらくいつ倒れてしまってもおかしくない状態だったのだろう。 「だったらせめて、しんどいって言ってくれよ……」  そうすれば俺も対処(たいしょ)できた。たぶんご飯だって見様見真似(みようみまね)でつくって食べるし、服も用意できるし風呂も沸かしていただろう。なにも倒れるまで働かなくても、もっと早く俺につらいと言えばよかったのだ。  それはただ俺が彼女が苦しんでいることに気づけなかった責任を転嫁(てんか)させているだけに過ぎないとわかっていた。だけど俺はどうしても、その言葉を口に出さなければ気が済まなかった。
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