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インターフォンが鳴って、玄関のドアを開けると、緊張した様子の雅人がわずかに表情を和らげた。
そして小ぶりの紙袋を差し出す。
中に箱が入っていて、レモンをあしらったパッケージから、デパ地下にある店のレモンケーキだと気付いた。
評判のお菓子だから、並ばないと手に入らないはずだ。
私は、どういう顔をすればいいのか分からなかった。
「……ありがとう」
かろうじて告げると、雅人は気遣う笑みを浮かべた。
「箱詰めの物を買ってしまったから、なんなら友だちに配って」
「うん、喜んでもらえると思う」
「あとこれ。総菜も美味しそうでつい」
透明のビニール袋を手渡してくる。五種類ぐらい入っているらしく、三人分はあるだろう。
「……こんなに?」
「ごめん。お腹を壊さないていどに」
私がふたたび視線を向けると、彼は切なげに目を細めた。
「――誕生日、おめでとう」
私は泣きたくなって、感情を抑えるので精いっぱいだった。とてもお礼など言えない。
「……雅人はずるい。恋人かどうかもあやしい相手に、どうして優しくできるの?」
「こういうことをするのは、迷惑じゃないかって思った。でも、かすみよりも自分の気持ちを優先した。君の誕生日を祝いたかったんだ」
その思いやりも、あたたかな眼差しも、私を嬉しくさせる。だから、正直に伝えた。
「雅人のそういうところが嫌い、って言っても?」
彼が絶句する。私は勢いまかせに思いを吐き出した。
「あなたが人を喜ばせようと行動するのは、素敵なことだと思う。でもそれが続くと、プレッシャーを感じる。一緒にいても、どうすればいいのか分からなくなるの」
「……やっぱり、俺が重荷なんだ」
「雅人は悪くない。素直に受け取れない、私がおかしいの。だから考えちゃう。私にあなたはもったいないって」
「いや、俺が甘えすぎたんだ。結局は、自分のペースで進んできた。かすみを大切にしたいと考えながら、自己満足に走っただけだ」
私は首を左右に振った。
「きっと素直で大らかな女性なら、笑顔で『ありがとう』って言える。そういう人が、雅人を幸せにするんだよ」
雅人が唇を噛んで、こちらの言葉を拒む。
「そんな人はいない。かすみ以外には」
「私は……無理。だっていま、すごくつらい顔をさせてる」
「自分が不甲斐ないんだ。この期に及んでも、ちょうどいい距離が分からない。だから、やり直すことができても、またかすみを苦しめる。俺が変わらなければ、未来はないんだ」
「ううん、私が未熟なの。あなたにふさわしい恋人になりたかった……」
そのとき、こらえきれず、涙がひとしずくこぼれた。私はあわててそれを拭う。
雅人が呆然とした表情で見つめる。
「かすみ……」
「雅人は、素敵な女性と出会えば幸せになる。だから、この関係は過去にしよう? ごめんね、もっと早く言うべきだった。でも今日までは、あなたを独り占めしていたかった」
「…………」
「これまでありがとう。こんな一言じゃ、とても感謝を表せないけど、こういうときってなにも浮かばないね。そうだ、そっちの家にある私の物は処分しておいて」
雅人が理不尽に襲われたような険しい表情をしている。
私に怒ったのだろうか。でも、そのほうがいい。
「レモンケーキとお惣菜はもらうね。それぐらいは、構わないよね?」
相手が黙り込んでいるので、私は困ってしまった。
だがもう、彼の優しさを求めてはいけない。
「お祝いしてくれてありがとう。それじゃあ」
なんとか最後に笑いかけて、ドアに手を掛ける。それ以上は相手の顔が見られない。
あとわずかで閉まるというとき、ドアの動きが阻まれた。
向こうで止めたらしい雅人が、もういちど目の前に現れる。
そして私を見据えて、静かに訴えた。
「かすみは俺の幸せを願ってくれたけれど、俺は君を不幸せにしたい」
素早く歩み寄り、私を抱きしめる。
長身の向こうで、ドアの隙間が細くなり、やがて消失した。
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