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旅館の明かりが近づいてくる。
時間にすれば、たぶん十五分ぐらい。ちょっと別世界を旅したような、不思議な感覚だ。
物語だと、多くの主人公はもとの世界へ帰っていく。冒険の記憶とともに、改めて現実と向き合うのだ。
私はピタッと歩みを止めた。
室賀くんがそれに気付き、立ち止まってこちらを窺う。
「笠野さん?」
私は視線を返して、わずかに苦笑した。
今日の宴会場での夕食後、私は仲のいい二人と大浴場のお湯を堪能した。緑ゆたかな自然に囲まれた露天風呂。とても癒やされ、大満足だった。
そして、割り振られた部屋に戻ったのだけれど。
ドアを開けたところで、にぎやかな笑い声が聞こえて面食らう。部屋の中から会話が流れてきた。
片方は、同室の女子のものだ。もう一人は若い男性。社内に恋人がいるそうだから、その彼だろう。
「笠野さん、そろそろ戻ってくるんじゃ。俺、退散したほうがいいよな?」
「まだ大丈夫、温泉はじっくり楽しむって言ってたから。ねぇ、もうすこしいてよー」
「あぁもう、かわいいこと言いやがって」
私は入り口で固まってしまった。
とてもじゃないけれど、このタイミングで「戻りました」なんて声をかけられない。どう考えたってお邪魔虫だ。
いや、部屋のメンバーは彼女と私だから、向こうにいる彼が邪魔者なのだが。
同室者が帰ってくることは認識しているし、じゃれ合っているだけ。そこで迷ったあげく、私は廊下に出た。
そして、庭でも散歩してみようと一階に降りたのだった。
すこし時間がたっているから、あの彼氏は出て行ったかもしれない。でも、まだいたら?
私はふぅっとため息をつく。
「帰りたくない……」
なんて、グチったって仕方ないのに。
ずっとここにいるわけにもいかない。諦めて顔を上げた。
すると、室賀くんが思いつめた表情を浮かべた。苦しそうに目を細め、絞り出すような声で訴えた。
「俺だって、帰したくない」
「えっ?」
彼は大股で歩み寄り、目の前に立ったとたん、私を勢いよく抱きしめた。思わぬ事態に、私の頭は真っ白になる。
「む、室賀くん……」
「そばにいてほしい」
熱っぽい口調で囁かれて、呆然とするばかりだ。
それでも理解する。これは、ただの同僚にする行為ではない。
混乱のなか、声をさまよわせる。
「あ、あの……」
そのとき、気付いた。
自分が口にした「帰りたくない」という言葉。恋人同士の邪魔をしたくないから、という意味だが、単体で聞けば。
あなたと別れるのは名残惜しい。もっと一緒にいたい。
そんなふうに聞こえたかもしれない。
いや、室賀くんはそう捉えたのだ。だから、私を抱きしめた――。
どうしよう。誤解だと言わなければ。でも、勘違いだって分かったら、相手はいたたまれない気持ちになる。
この状況を丸く収める言葉なんて、とても思いつかない。なにもできないまま、相手のぬくもりを受け止める。
一分一秒がすぎるほど、取り返しがつかなくなるのに。
室賀くんが、まるで禁忌に触れるようにこちらの頭を撫でた。ドキドキすると同時に、そうされるのが気持ちいい。
彼の身体はすこし強張って、息遣いからも緊張が伝わってくる。
普通、恋人でもない相手にこんなことをされたら、嫌悪感や困惑でいっぱいになるだろうに、私の胸の内は満たされる。
室賀くんが気遣いの人だから? ううん、私は彼にこうされるのが嫌ではないのだ。
相手が手を止める。
「笠野さん……」
こちらの肩をこわごわつかみ、身体をわずかに離した。
間近で見つめ合う。彼がいまにも泣き出しそうな表情で、私は言葉を失った。
相手の顔が近づいてくる。あ、と思ったけれど、その行動を阻むことはできなかった。
互いの唇がそっと触れる。室賀くんのそれは柔らかかった。わずかに重ねるだけの口づけ。
唇が離れたあと、またギュッと抱きしめられた。
「俺は、ずっと前から君のことが――」
ひとつの雫が落ちてきて、私の全身に波紋を広げた。
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