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2話
職場のざわめきの中、パソコン作業をしていると、同僚女性から声をかけられた。
「笠野さん、お昼にしないの? 十二時まわったよ」
「えっ? あ……」
そちらに顔を向けると同時に、掛け時計が目に入る。いつの間にか、休憩から十分すぎていた。
「気付いてませんでした。もう行きます」
「すごい集中力ねー。じゃ、お先」
彼女が立ち去ってから、ふう、と息をついてディスプレイを見た。作業の途中だけれど、中断しても問題はない。先に食事にしよう。
保存してパソコンの電源を落とす。
どちらかといえば、今日は集中力がない。仕事は若干、押し気味である。あとでコーヒーを飲んで、午後がんばろう。
切り替えて席を立った。
食堂でいつものメンバーと席を囲む。談笑しつつ昼食をとるものの、なんだか地に足がついていない感じだ。
食事が三分の二ほどすすんだところで、ふと食堂内を見回す。すると、ピンと背筋の伸びた男性が、カウンターでトレイを受け取っていた。
私は思わずドキッとする。
踵を返した室賀くんは無表情だったが、こちらに気付くと控えめに微笑した。
歩み寄ってきて、そばで立ち止まる。
「エビフライ定食? 美味そうだな」
「うん、衣がサクサクだよ」
「じゃあ、今度たべてみる」
そうして彼は、やや上機嫌な様子で去っていった。
同僚女子たちがぽかんと眺めていたが、ハッとして詰め寄ってくる。
「笠野さん、室賀くんと仲よかったの?」
「えぇと、仲がいいというか……」
「彼でも、仕事以外のことで声をかけたりするんだ!? 雑談するところなんて初めて見た」
「いや、多くはないけど、ゼロでもないかと」
彼女らはいったん顔を見合わせてから、声をひそめて尋ねてきた。
「もしかして……付き合ってる?」
私はちょっと困ってしまう。
たしかに、連絡先を交換してメッセージを送り合った。でも私自身、この状況に気持ちが追いついていないのだ。
「このあいだの社員旅行で、すこし親しくなったかな」
あれからまだ五日とたっていない。
旅館の庭を一緒に散歩したことも、どこか夢のようだ。
彼女らが感心する。
「そうなんだ。室賀くんと仲良くなること自体がすごいよ」
「喋ってみたら、そんなにとっつきにくくないよ」
「まだ数日なら、これからだね」
「……うん」
私はあいまいに笑った。
ほんとうは、始まりの日に旅館の一室で彼と――。ついそれを思い出して、顔が火照る。
チラッと食堂内に視線を流すと、室賀くんは端の席で食事していた。
ピシッとしたスーツの肩から背中のラインに、ドキドキしてしまう。これまで、そんなふうに感じたことはなかったのに。
あの夜をさらに思い出しそうで、あわてて目を逸らした。
私と彼の関係は変わったのだ。
食堂で一言二言、話をするぐらい、普通ならよくあること。けれど室賀くんにとっては、非常にまれな事態だ。
しかも向こうから声をかけて、嬉しそうにしてくれた。そんな態度がくすぐったい。
旅行が明けてから、ただ仕事をこなす日々。そんな中で、つい彼のことを考えては、落ち着かない気持ちになる。
『付き合ってる』かぁ……。
改めて考えて、心の中でジタバタする。こんな状況に慣れるのは、まだ先のことだろう。
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