1話

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1話

「あれ、笠野さん?」  不意に名前を呼ばれて振り返ると、同僚の室賀くんが、浴衣と羽織りという格好で立っていた。  スーツ姿しか見たことのない相手が、着物をまとっているのはすごく新鮮だ。しかも彼は、しょうゆ顔でスリムな体型だから、浴衣がよく似合う。  思わず見とれ、ハッと我に返って、わずかに視線を逸らした。  かく言う私も、相手と同じ姿だけれど。  ここは旅館のロビーの片隅。夜の十時半という遅い時間のため、ほかのお客さんは見当たらない。  私たちは社員旅行でここを訪れた。だから館内には仕事仲間がたくさんいる。おそらく大浴場かラウンジ、または部屋で楽しい時間を過ごしているのだろう。  売店が閉まったあとなので、一階でこうして誰かと鉢合わせするとは思わなかった。  室賀くんも意外に感じたらしい。 「こんなところでどうかした?」 「えぇと、部屋から見る庭がキレイだったから、歩いてみたいなぁと思って」  すると彼は、こんな遅くに、と戸惑ったが、気を取り直してうなずいた。 「たしかに、散策したら気持ちよさそうだ。町中より星がよく見えるかもしれない」 「うん。明日は同期の子と『観光しまくろう』って言ってるから、いましかチャンスがないなぁって」 「夜の森林浴か。俺も行ってみようかな」  予想外の言葉に、私はびっくりした。  室賀くんはクールな性格で、仕事仲間の輪を乱すことはしないものの、誰かについていくタイプではない。  私と彼は同期だけど、別部署の人間で、普段それほど関わる機会はない。だから、自由時間を共にする、なんてことを言い出すとは思わなかった。 「室賀くんは誰かと一緒じゃないの?」 「ラウンジに付き合ったんだけど、カラオケが苦手だから逃げてきた」 「なるほど。社員旅行だとスルーしづらいよね。お疲れさま」  あまり表情の変わらない彼だけど、気の向かない場に引っ張り出されて苦労したんだろう。その様子を想像して、私はちょっと笑った。  室賀くんがやや弱った顔をする。  会話の流れから私は言った。 「みんな追いかけてこないだろうけど、捕まらないためには部屋より庭のほうが安全かもね」 「ああ、うん。笠野さんは、その……一人のほうがよかった?」 「そんなことないよ。時間が時間だし、室賀くんが一緒だと心強いかな」  すると彼は目元をわずかに和らげた。  あまり接することのない関係で間が持つかな、と思ったけれど、今日の室賀くんはいつもより喋ってくれる。会社にいるときは気を張りつめていても、旅先ではリラックスしているのかもしれない。  連れ立って散歩するのも悪くなさそう、と思った。  建物を出て庭をゆっくり歩いていく。  旅館の明かりと灯篭の光で、足元に不安はなかった。サンダルのような形状の下駄も歩きやすい。ただし浴衣姿のため、洋服のときよりは動きが緩慢になる。  小さな池まで来たとき、室賀くんが苦笑した。 「鯉がいるって聞いたけど、この時間じゃ分からないな」 「静かだし、みんな寝ちゃったのかも」 「じゃあ、起こさないように」  彼が気遣った足運びをするので、私はついクスクス笑った。 「眠った子どもからそっと離れる、若いパパみたい」 「そ、そんな経験ないしっ」 「だね。でも旅先の鯉に優しいから、家族にはうんと優しいんじゃないかな」  相手の柔らかい一面に、そう感想を述べると、室賀くんが眉をしかめた。 「どういう意味?」 「そのままの意味だけど」 「……そりゃそうか」 「気を悪くした?」 「いや、急に褒められて動揺した」  そして広い背中を向ける。  私は大したことは言っていないので、彼がうろたえたという事実に驚いた。  そういえばさっき、「ラウンジに付き合った」と言ってたっけ。もしかしたらその場で、すこしお酒を進めたのかもしれない。  表情も言動も普段とさほど変わらないけれど、酔いが残っているのだろうか。だとしたら、一緒に散歩するという気まぐれを起こしたのもうなずける。  室賀くんがスタスタ歩いていってしまう。  怒らせたのかも、とあわてて追いかけると、彼はピタッと立ち止まり、申し訳なさそうに振り向いた。 「ごめん、自分のペースで」 「ううん。浴衣でも機敏に動けるなんて、やっぱり男の人だね」 「……まぁ」 「さっきまで、私に合わせて歩いてくれたんだ」 「そりゃあ」  ありがとう、嬉しい、と言うべきだが、それが妙にくすぐったくて、私はつい非難した。 「じゃあ、旅館に戻るまで、置いていかないで?」  すると室賀くんはなぜか険しい表情になり、地面に視線を落とした。 「そんなこと、しない」 「よかった」  私がホッとして笑いかけると、ふたたび顔を向けた彼が、まぶしそうに目を細めた。
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