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NARESOME #1
仕事をしてれば色々ある。それは知ってる。どんな職業であろうと、なんのトラブルもなくスムーズに行くことばかりじゃない。
けど……俺は初めてだったんだよ。
「え、やり直し……?」
『ああ。先方の会社で異例の人事異動があった事が関係してるらしい。後で担当から連絡が行くから、対応よろしく』
自宅で仕事をする俺に会社からかかってきた電話は、俺が1ヶ月ほど前から取り組んでる大手食品メーカーの新商品のパッケージデザインを大幅修正しろ、という訳の分からない内容だった。
内容を詰めてる段階ならまだしも、微調整をしてあと1週間ほどで完成するってタイミング。
おいおいおい、だよ。
俺のかけた時間と労力は??
その後聞いていた通り担当から電話がかかってきて、そりゃあ平身低頭平謝りで……人事異動でトップが代わり、予算の変更があったとかどうとか……
「早急に今後のことを話し合いたいんです!今からお伺いしてもよろしいでしょうか!?」
「えっ俺ん家に?」
「はい、こちらの都合で出て来て頂く訳にも参りませんので!」
別に人を入れられない家じゃないけど、あくまでここは俺のプライベート空間だから……だからそこは丁重にお断りして、都内のホテルのラウンジで待ち合わせることになった。
はぁ……なんか、ズーンとくる。
クライアントと話し合いを重ね、自分が納得いくまで練り込んで練り込んで仕上げてくパッケージは、名前が外に出ない俺の作品のようなもの。
あらゆる面でベストを追っかけた結果が今の段階なわけで、今後迫られる変更は、ラフを白紙に戻すのとは訳が違うから。
「やだなー……行きたくねぇ……」
そういやここんとこついてない。スマホを落として画面を割ったし、お気に入りの箸が折れたし。
星占いでは、仕事運、恋愛運、健康運ともに絶好調!な感じのことが書いてあったのに、大ハズレ。俺は大きくため息をついて、それでも渋々出かける準備を始めた。
気分を上げるために、お気に入りの服を着よう。
足首丈の黒のワイドパンツにくたっと柔らかい白いシャツ、自然な風合いのきなりの靴下に黒いつや消しのオペラスリッポン。それに黒のサコッシュ。黒のキャップを被ったらやり過ぎかなぁ……
迷った末に、形がミリタリー風で気に入って買った黒のキャップを被って出かけた。会社に属してはいるものの、基本在宅ワークのデザイナーはこんなもん。
スーツなんか着てられるかっての。
待ち合わせ先のホテルに入り、ラウンジの入り口からキョロキョロすると、俺を見つけて立ち上がり、頭を下げる担当の山口さん……と、その隣に一緒に立ち上がった知らない男。
ネイビーのスーツに薄いブルーのワイシャツ、シルバーグレーのネクタイっていうごくシンプルな出で立ちだけど、長身でガタイが良いせいですげぇ目を引いて…………
まだはっきりと顔が見えないうちからドキドキし始めてた。
好み、とかそんな言葉が出てくる前に、予感が走ってた。
「長谷川さん!ご足労頂いて、ほんとにすみません!今日はまずは心より謝罪させて頂き、今後のことをご相談させてもらいたいと思ってます。あ、こちら、営業課長の佐野です」
山口さんから紹介された彼の上司の佐野さんは、姿勢のいい会釈をして顔を上げると、名刺を俺の方へ差し出しながら「佐野哲雄です」と耳に心地いい低音で告げた。
近くで見た彼の顔が、くっきり焼き付く。
爽やかな男前。言葉にしたらそんな感じかもしれない。でも俺にとっては顔の全てのパーツが形からその配置に至るまで、あまりにも完璧だった。
正確には美醜の問題じゃないんだろう。だって俺は、彼がはっきり見える前に何かを感じてた。
人生上未経験の衝撃。平たく言えば一目惚れ。
ぼそぼそと自己紹介をして名刺を渡しながら、高揚したこの気持ちを悟られないようにうつむき加減で席に着いた。
山口さんと佐野さんが、会社の詳しい内情は伏せつつ予算を削られることになったいきさつを話してくれるけど、内容があんまり入ってこない。
提案されたのはパッケージの外観的印象は変えないで素材の変更などで予算内に収めて貰えないか、っていう結構な無理難題。
だって検討し尽くし完成間近だった物に、そう簡単に代替素材が見つかるわけもないから。
それなのに、出来る限りのことはやってみる、と答えてたんだよ。間違いなく一目惚れがもたらした気の迷い。なんかふわふわした俺の頭が考えてたのは、佐野さんとこのまま別れたくないっていう仕事とは全く関係ないヨコシマなこと。
「その代わりと言っちゃなんだけど。佐野さん、今夜ディナーをご馳走してよ」
にこっと笑ったのは、いざとなったらジョークで済ませるため。
俺がゲイだってのは山口さんを通じて知ってる可能性が高かったから、つまりは気があるって言ったも同然で……でもまぁ、断れないよな。佐野さんは穏やかに笑って、いいですよ、と快諾した。
その場で夜の待ち合わせ時間を決めて、二人と別れた。
時間を潰すために街を歩きながら、まるで10代の頃のように胸をドキドキさせてた。
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