涙には理由がある(時にはない)

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涙には理由がある(時にはない)

退職した神崎さんが、会社の飲み会に顔を出した。人が多い居酒屋の座敷席で、俺が注いだビールを一口飲んで、神崎さんは目の前のジョッキを指差した。 「最近もっぱらこれなんだよ」 「焼酎ですか」 「芋焼酎のお湯割。お前グラスは?」 グラスを差し出す。 「航介のとこは、特に問題なしか?」 「はい、地震満期、無事終わりました。口座振替の依頼書いただきましたので、次から引き落としでいけます。あ、ありがとうございます」 お酌してもらったビールに口をつけると、神崎さんはジョッキを手にした。 「あいつ。口振、俺が言ってもめんどくさがってやらなかったくせに」 「集金にしとけば、年に一度神崎さんが訪問するから、じゃないですか」 「七夕か?で、航介どうしてる。お前、満期で行ったっきりか」 はい、と嘘をつくかどうか迷っているうちに沈黙が生まれた。 ちょうど一週間前に有休を取って、吉村さんと近場の温泉に行ったばかりだった。 最近リニューアル済みという触れ込みの旅館にして、新館の和洋室を予約したが、「本館」は広い玄関のある古めかしい木造の建物だった。 上がり框にスリッパがずらりと並び、フロントの脇に大きな鹿の剥製が置いてあった。 客室まで案内される途中、埃っぽい匂いのする赤い絨毯敷きの廊下のところどころに、屏風や壺や鳥の剥製が展示されていて、最後にエレベーターに乗る直前の角には、甲冑が飾ってあった。 係の人がエレベーターのボタンを押す隙に、俺は吉村さんを振り返り、吉村さんは噴き出しそうになって目をそらした。 新館の通路は普通のビジネスホテルと変わらなかった。窓際に形ばかりの縁側がある客室に案内されて、係の人が出て行くなり、 「お前、本当にここでよかったの」 と言って、吉村さんが笑い出した。 「甲冑があるとは思わないよなあ」 「でも、あそこに置いてあるってことはレプリカですよ、きっと」 「レプリカと思えば、気が休まる?」 「そうでもないです」 吉村さんは笑いをかみ殺して、口元を押さえた。 木戸に映るあの影は、しばらく見ていなかった。そもそも、夜に吉村さんの家から出る時は、怖くて見ることができない。 ロビー近くの売店にいる時、女性が吉村さんに声をかけた。 「すみません。あの、航介さんですよね。吉村航介さん」 俺は棚ひとつ離れた所にいて、俺と同い年ぐらいの女性と浴衣姿の吉村さんを見るともなく見た。 例の宮田圭悟と共作した歌のことを言って、あの歌がどんなに好きかと一生懸命に話しながら、彼女はみるみる頬を紅潮させ、途中で言葉に詰まった。 隣にいた男性が、この人、本当に好きで今もしょっちゅう聴いてるんですよ、と助け船を出した。 その後、しばらく話が続いて、彼女は顔を赤くしたまま、 「握手してもらってもいいですか」 と小声で言った。 「いいですよ。こんなかっこの時で、逆にすみませんね」 吉村さんが手を取ると、彼女は小声できゃーっと叫んだ。 「僕も、してもらっていいですか」 「しましょう」 連れの男性と笑って握手してから、吉村さんが俺の方を見たので、二人も俺を見た。曖昧に笑っておく。 「有名人」 「行こう。何か買う?」 「今はいいです」 部屋に戻る途中、一応、甲冑の前で立ち止まって二人で観察したが、どこかに説明があるわけでもなかった。 「ファンの人、航介さんって呼ぶんだ」 部屋に入ってから言うと、吉村さんは肩をすくめた。 「あんなこと滅多にない。ファンの人、なんていないからな」 「いやいや、今いたじゃん」 彼はタオルを袋から引っ張り出して、テレビの横の椅子に掛けようとする。 「どっかに干すとこありますよ。ちょっと待って」 湿ったタオルを取って縁側を見に行くと、ステンレスのタオル掛けがちゃんとある。 俺が自分のタオルと並べて干すのを、吉村さんは覗き込んだ。 「お前、もしかして前にもここ来たことある?」 「えっ、何で?」 「よく知ってる」 驚いて顔を見たが、彼は真面目に言っているようだった。 「こういうの、温泉旅館には普通あるんですよ」 付き合い始めは旅行に行くものだと言ったし(これまでそうしてきた、と思われたんだろう)、行き先を提案したのは俺で、予約もして、電車の時間とかも全部調べて、チェックインの時は宿帳も書いた。さっき行った大浴場の場所もあらかじめ調べたから把握していた。 そうしたかったから、しただけなのだが。 「ここ初めてです」 「そうか」 「あの甲冑の存在知ってたら、ここ選んでないです」 抱き寄せると、彼はちょっと笑って、あっなるほどな、とかなんとかつぶやきながら、俺の背中に腕を回した。 いつもと違う匂いがして、体は熱かった。窓から小さく海が見えた。 夕食は別の個室に移動して食べる、という奇妙な仕組みになっていて、時間があるから散歩に行こうとさっき風呂で話したのに、結局ベッドになだれ込んだ。 吉村さんは自分の片脚を抱えて、俺の指が埋め込まれたところを中心に体を捩らせる。 少しずつ息が上がってきて、そのうち我慢できずに声が漏れ出す。続けていると、汗が滲む体から力が抜けて、俺が何をしても気持ちよさそうな声をあげ、時々、南、と俺の名前が混ざる。 はだけた浴衣の胸に浮かんだ玉のような汗を唇で拭うと、体が大きく震えた。 「指だけでいく?」 吉村さんは首を横に振った。 「これ大好きなのに、なんで?もっとして欲しくない?」 涙の跡が幾筋も右の目から頬を走っていて、ちょうどまた涙の粒が滑り落ちそうになっているのを舐め取った。 彼は脚を支えていた手を離して俺に抱きつき、南、と耳元で言う。 「みなみ、南」 「うん」 涙には驚かなくなっていた。気持ちよくなって追い詰められると、この人の右の目だけから涙が溢れる。 夜に右だけ涙が出ると言っていたのと同じ理屈で、生理現象だろう。 いつもは水のようで、今は汗と混ざって、淡く塩の味が舌の上に残った。 「指だけでいけるか頑張ってみれば?いくまでしてあげる」 「指だけはやだ」 「俺のがいい?そんなかわいいこと言いませんよね」 彼は答えず、俺は唇を塞いで、その瞬間、同じ言葉、同じ仕草、同じ匂い、同じ時間がいつかどこかにあったという感覚に襲われる。 いい加減にして、と言っておかしそうに笑った顔。 やってる最中に意味のないことを延々話しかけるから、前に付き合っていた子に笑われた。そうだ。 なぜかその時のことが鮮明に蘇る。俺は無理に目を開けて、吉村さんの口の中を舌で探った。 南は、やってる時に喋りすぎ。 彼は北沢という名字だった。名前からして相性がいいよな、と言い合った。 二年近く付き合って、ある日唐突に別れ話をされた。俺は別れたくないと言った。 無駄な話し合いの最中に、半分冗談で磁石の話を持ち出すと、北沢はうつむいてぼろぼろ涙を零した。 泣き止むまで黙って待った。北沢は手の甲と手首の内側で顔を拭い続け、時々呼吸と一緒に泣き声を漏らす以外は何も言わなかった。俺は長い時間待った。 泣かれた理由がわからず、うっとうしくて別れる方に気持ちが傾いた。 なぜあんなに冷たい態度を取れたんだろう。 俺は吉村さんの首筋に顔を埋める。胸に穴が開いたような寂しさが体じゅうに溢れた。
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