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いいから黙ってやれ
泊まった日の朝、目が覚めたら、吉村さんが横にいなかった。俺は、あっと声をあげた。帰ってしまった、と思った。
慌てて起き上がると、縁側の椅子に座った吉村さんが不思議そうにこっちを見ていた。青いシャツを着て、開いた本を膝に乗せている。
「ああ……いた」
「どうした」
俺はベッドに倒れ込んで、胸を押さえた。心臓が体の内側に激しく打ちつけて、急激に吐き気がせり上がってくる。隣のベッドとの間に吉村さんが立って、
「どうした」
ともう一度言った。
「いなくなったと思って」
「ん?」
「ちょっと、すみません」
彼を押しのけてバスルームに入り、洗面台に両手をついた。
寝ぼけたとはいえ、吉村さんが帰ってしまったと思い込んだことも、それがショックで心臓が止まりそうになったことも、気に入らなかった。
呼吸が落ち着いた後、汗が冷えて青ざめた自分を鏡で一瞬だけ確認して、顔を洗った。
使わなかった方のきれいなベッドに、彼は腰掛けていた。謝って向かいのベッドに座ると、
「大丈夫か」
と聞かれて、考え込んでしまう。
「南?」
「航介さん」
昨日から、何度か呼んでみようとして、呼べなかった。吉村さんはちょっと目を見張った。
「さん、付けなくていいよ」
なんとなく、そう言われる気はしていた。手を伸ばすと、立ってきて俺の隣に座ろうとする。
俺は仰向けに寝転んで、彼の手を引っ張って自分の上に誘導した。
「え、なに、どうすんだ」
「航介さん」
「何だよ」
バランスを崩しかけて踏ん張り、吉村さんは枕に両手をついて俺を見下ろす。
この人の胸を開いたら中に複雑な機械のようなものがある。そこにフックを掛けるみたいに自分と繋いで、離れられないようにする。
前にそれを思った時よりも、そうしたいという気持ちが強く込み上げた。妙な想像とわかっていながら。
「呼び捨てにされたい?」
と聞くと、吉村さんは薄い唇を引き上げて、ふふ、と笑った。
「航介」
「ふふ」
「航介。でも、さんはやっぱ付けようか」
引き寄せて、形の良い耳に囁きかけた。
「こんな感じで航介って呼んだら、絶対悪いこと考えるでしょ。他の男のこととか、さ」
舌を伸ばして耳たぶを舐める。朝日が差し込んで、白い天井に光の筋が走っていた。
「お前、何言ってんだ」
逃げられないように頭を押さえているから、吉村さんはくぐもった声で、熱い息が俺の喉にかかる。
「何だろ。わかんねえ。ためしに一回していい?」
もう片方の手で背中を撫でて、首筋を唇でなぞった。吉村さんは、それこそよくわからないけど、考える様子で息を止めてから、ふっと吐き出して、
「まず、朝飯食いに行く」
と俺を振り払った。
朝食会場の大広間で、席につく直前に、吉村さんが遠くに向かって会釈した。
「昨日の人?」
「そう」
俺は振り向かず、吉村航介が男と二人で温泉に泊まるのを、彼女達はどう思うんだろうと思った。
平気なんですか、と聞こうか考えているうちに、おはようございます、と後ろから声がして、昨日の女性が俺の横あたりに遠慮がちに立ち、俺にもおはようございます、と挨拶した。
「すみません、昨日一つ言い忘れて。今度、鎌倉でやる宮田さんのライブに行きます」
「あ、来月の」
「はい、夫と友達連れて行きます。もしかして、航介さんもいらっしゃいますか?」
「あーまあ近所だからね。都合つけば行くつもり。またお会いするかもしれませんね」
昨日のようにきゃーっとは言わなかったが、横にいる俺には、彼女が本当に喜んでいることがよくわかった。
彼女が立ち去って、吉村さんは、すまんと小声で言って、箸を取った。
「声かけられるなんて、滅多にないのにな」
「いや、いいですよ。あの人、吉村さんと話せてすげえ嬉しそうだった」
食欲はない。テーブルに並んだたくさんの皿を眺める。
吉村さんは、魚の干物からきれいに骨を剥がして、俺の視線に気づいて笑った。
「お前、魚食えるんだっけ?骨取ってやろうか」
「何でそこ子供扱いなんですか、大丈夫です。来月ライブがあるんですね」
「そうらしい。それでこないだ打ち合わせに来たついでに、寄ってった」
彼は俺を見ずに、次に聞こうとしていたことに答えた。俺は一応頷く。
後から調べたら、小さなライブスペースがある店のイベントで、宣伝はほとんどしていなかった。
「吉村さん、見に行くんですか」
「まだ、仕事がどうなるかわからない」
ちらっとこっちを見た目つきで、この人はただ嘘が下手なだけなのかもしれないなと思う。見に行くことは決めているし、会う機会があれば会うのだ。
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それが一週間前のことだった。
神崎さんは俺の顔を見て、
「何かあったっぽいな」
と言った。ビールを飲み干して時間を稼いでから、頼まれて夏の間に庭の草刈りをしたことを話す。
「草刈りした後で、駅前の美味しいお店に連れて行っていただきました」
神崎さんはビール瓶を引き寄せて、俺のグラスに注いだ。
「で、平気なのか?仲良くなった?」
「仲良く、ですか」
「あいつ普段一人で籠ってるだろう。お前のこと気に入ったのはいいんだけど、話、合うか?」
また固まりそうになって、俺は慌ててグラスに口をつけた。
「無理はするなよ」
「はい、無理はしてません」
「何かあったら、相談してくれ」
宮田圭悟と俺って共通点ないですよね、何であの人は俺に目をつけたと思いますか、とか、くだらないことを言えたらいいな、と思う。
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宮田が離れた後で男を漁った、と吉村さんが言ったのは、俺とのことはそれとは別だと、あの人自身は認識しているからだ。
実際は、宮田も他の男も満たさなかったあの人の欲望を、今の俺がたまたま満たした、というだけのこと。
やってる最中に航介と呼んで、最初は二人で笑ったが、そのうち彼は目を閉じた。
宮田は俺みたいには抱いてくれなかったんだろうと言ってやりたかった。吉村さんには多分伝わっていて、ふと目を開けて、南、と言った。
「航介。航介って呼んでいいんだ」
「いいって言った」
「呼んで欲しかった?」
それには、何も答えなかった。北沢が笑う顔が脳裏をよぎる。
「俺、喋りすぎですか」
吉村さんは、片脚を乱暴に俺の腰に乗せた。
「喋ってもいいから、集中しろ」
「集中してる」
「そうでもないだろ」
体を起こして腰の上の足を振り落とし、もう片方の脚を掴んで持ち上げた。
俺を見上げるその目は輝いて、何が欲しいかがちゃんと書いてある。シンプルで、読み間違えることもないし、俺は欲しいだけ与えることができる。いつものように、溢れていっぱいになって、もうだめ、と言われるまで。
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